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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉗

歴史研究最前線!#061

九度山からの“真田の抜け穴”は実は古墳だった⁉

九度山(和歌山県九度山町)の真田庵から東に約170メートルほど行った坂道の近くある、「真田の抜け穴」。

 前回の続きである。

 

 関ヶ原合戦後、昌幸・信繁父子は真田庵に住んでいたとき、抜け穴を作っていたといわれている。この点をもう少し詳しく触れておこう。

 

 九度山(和歌山県九度山町)の真田庵から東に約170メートルほど行った坂道の近くには、「真田の抜け穴」といわれる場所がある。

 

 穴はちょうど人が入れそうな大きさで、かつて信繁はこの抜け穴を使って大坂城に入ったという。当時の説明版にはそう書かれており、多くの人々が信じていたといわれている。

 

 ところが、昭和29年(1954)の九度山町役場の発掘調査により、抜け穴は4世紀頃の古墳時代後期の古墳であることがわかった。

 

 石積の立穴は古墳の墓道であり、途中に存在する横穴は室屋(棺を安置する場所)であったという。現在では、真田古墳と名付けられている。

 

 かつて地元の住民の皆さんの多くは、それが「真田の抜け穴」と信じていたというから、誠に罪深い話である。ガッカリしたに違いない。

 

「真田の抜け穴」の話は、大阪市天王寺区小橋町の産湯稲荷神社にもある。同神社は天正年間における織田信長と大坂本願寺との合戦で焼失したが、のちに再建されたといわれている。

 

 かつて付近の一帯は高地であったというが、北面に「真田の抜け穴」と称するものがあり、その長さは約50間(約90メートル)あったといわれている。当時の技術力を念頭に置けば、かなりの長い距離であるといえよう。

 

『大阪府史蹟名勝天然記念物 5巻』によると、明治18年(1885)の洪水によって抜け穴の真ん中付近が陥没したと書かれている。また、当時は抜け穴がすべて開通していなかったが、のちに入口を封鎖して入れないように扉を設けたという。

 

 戦後、地元の人々は抜け穴が危険であるなどの理由で埋めたといわれている。これも真偽は不明である。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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