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敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉓

歴史研究最前線!#057

「先んずれば人を制す」積極策を提案した信繁だったが…

景福寺(鳥取県鳥取市)にある後藤又兵衛の墓。遺髪が埋められていると伝わっており、妻子の墓も建てられている。

 前回の続きである。

 

 大坂冬の陣の開戦直前、真田信繁は亡き父・昌幸の遺言を実行すべく、軍議の席において作戦を提案した。以下、確認しておこう。

 

 その作戦とは、信繁と後藤又兵衛の2人が宇治(京都府宇治市)と瀬田(滋賀県大津市)に出陣し、家康・秀忠の上洛を阻止するものだったが、『甲陽軍鑑』の作者・小幡景憲(おばたかげのり)により、あまりの奇策であるがゆえに退けられたという(『真武内伝』)。なお、景憲は、徳川方のスパイであったといわれている。

 

 『幸村君伝記』によると、大野治長(はるなが)は軍議で作戦を提案した。かつての関ヶ原合戦では、家康の出馬が遅かったため、諸大名は気勢を削がれた。そこで、治長は家康を「耳臆病」な大将と評価し、大挙して豊臣方が蜂起すれば大いに驚くと考えた。家康は世評が心配になり、全国各地の大名の心境をうかがうとでも思ったようだ。

 

 続けて片桐且元(かつもと)の茨木城(大阪府茨木市)を攻略し、さらに軍勢を京都に向かわせ洛中を焼き払って板倉勝重(かつしげ)を討ち、近国の城を落として猛威を振るえば、大名たちは自然に豊臣方に与すると治長は考えたのである。

 

 信繁は治長の発言に対し「もっともなように聞こえるが、誠に粗雑で荒っぽい議論ではないか」と反論した。

 

 信繁は、治長が家康を臆病な大将と評価している点について、「浅はかである」と指摘した。そのうえで、信繁は味方がゆっくりとしている間に、家康が宇治・瀬田を越えると、味方が気後れしてしまうため、すぐに家康を討つべきと主張した。積極策の提案である。

 

 信繁と治長が議論を戦わせる中で、割って入ったのが後藤又兵衛である。又兵衛の主張は宇治・瀬田などに積極的に打って出て、徳川方の自滅を待つという作戦だった。積極策で長期戦に持ち込めば、徳川方は疲労困憊して、戦意を喪失すると考えたのである。

 

 治長は、信繁に宇治・瀬田で戦う理由について質問した。信繁は兵法の「先んずれば人を制す(『史記』)」という名言を引用し、「籠城戦は国中・境目の地での攻防か後詰が期待できる場合は有利であるが、大坂の陣では日本中の軍勢が集まるため、計略により敵との戦いを避けなければ、勝利は得難い」と述べた。

 

 また、信繁は籠城戦になれば、矢、鉄砲玉そして食糧が底を尽き、戦意を喪失した兵卒は裏切るか降参すると考えた。むしろ、積極的に戦い、味方が有利になる噂を流せば、徳川方に味方した者も豊臣方に寝返ると主張したのである。

 

 徳川方は土地に慣れておらず、また寒さと長旅で疲労困憊と予想された。豊臣方が粘り強く戦い、それでも運が尽きたときは、潔く自害すればよいと信繁が述べると、一同は大いに賛意を示したという。

 

(続く)

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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