真田信繁の大坂城入りを知った家康が身震いしたのは本当か?
歴史研究最前線!#055 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㉑
家康を身震いさせた“信繁入城”の報せ

秀忠に将軍職を譲った後、家康が居城とした駿府城(静岡県静岡市)。現在では、本丸と二の丸の城跡が「駿府城公園」として整備されている。
真田信繁の大坂城入城は、単に豊臣方に歓迎されたに止まらず、徳川方を恐怖のどん底に陥れた。いうまでもなく、徳川家康・秀忠父子は第2次上田城合戦などで、昌幸・信繁父子に散々苦しめられたからだ。
家康が昌幸・信繁父子を憎んでいたのは事実であろうが、恐れたというのはいかがなものか。また、両者の間には、どのようなエピソードが残っているのだろうか。そのエピソードとは信繁が九度山を脱出し、大坂城に入城した際のものである。
『幸村君伝記』によると、家康は真田(信繁とは書いていない)が大坂城に入城したという情報を知ると同時に、はっと驚いてそのまま報告した者のところまで近づいていった。家康が非常に狼狽した様子がうかがえる。
そして、家康は戸に手を掛けたまま「真田が籠城したというのか。それは親(昌幸)か子(信繁)か」と質問したのである。その間、家康が手を掛けた戸がガタガタ鳴るほど震えていたという。真田に対する恐怖心があったゆえであろう。このように家康は真田を恐れ、大変驚いたと伝わる。
報告した者が畏まって「『昌幸は去年の夏に病死し(3年前の間違い)、子の信繁が籠城しました」と答えた。すると家康はほっと息をついて、少しばかり安堵したというのである。昌幸ならばどうしようかと悩んだことであろうが、信繁ならばまだマシだと思ったのか、途端に安心したのである。
ところが、家康は自身の恐怖に怯えた姿に恥ずかしさを感じたのだろう。何といっても秀忠に将軍職を譲ったとはいえ、天下人であるのには変わりがない。家康は身震いした理由について、「身震いしたのは、真田に恐怖したのではない」と弁解したのだ。
関ヶ原合戦後、心の広い家康は、昌幸・信繁父子を処刑しようとした。ところが、昌幸の子・信之が助命を訴えてきたことを認め、その恩賞に代えて、2人を助命したのである。これが家康にとって仇になった。
しかし、真田はそのときの恩義を忘れて再び大坂城に籠城したので、家康は怒りに打ち震えたのだと理由を説明した。家康は真田を恐れたから震えたのではないと言ったものの、苦しい言い訳であるのは誰の目にも明らかだった。