名将がひと目で震えた真田信繫の「赤備え」
歴史研究最前線!#054 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑳
徳川方を威嚇する効果もあった信繁の「赤備え」

白石城天守閣(宮城県白石市)にある、真田信繁の「赤備え」甲冑レプリカ。兜に輝く六文銭に威風が漂う。
次に取り上げるのは、「赤備え」である。
信繁と大助は大坂城近くの茶臼山に着陣したが、そのときの軍装は「赤備え」であったという(『大坂御陣山口休庵咄』『山本日記』)。では、「赤備え」とはどのような軍装なのであろうか。
そもそも「赤備え」は、武田氏配下の飯富虎昌(おぶとらまさ)が初めて使用し、その後は山県昌景(やまがたまさかげ)が用いたという。真っ赤な軍装で身を包んだ武田の騎馬隊が攻め込んでくると、視覚的な効果も大きなものがあり、敵は恐怖したという。そもそも「赤備え」は武田氏が起源のようで、真田家の専売特許ではなかったようだ。
武田氏の滅亡後、その旧臣を受け入れた徳川四天王の井伊直政も軍装を「赤備え」で統一し、「井伊の赤鬼」と称されて敵軍から恐れられたという。ちなみに井伊家では、幕末に至るまで「赤備え」の軍装を採用し続けた。
以上のとおり「赤備え」とは、具足などの軍装すべてを赤一色に統一したものである。では、信繁の軍装はどうだったのか。
信繁は緋縅(ひおどし)の鎧(緋に染めた革や組糸を用いたもの)を身につけると、鹿の角を前立にした白熊(ヤクの尾の毛)付の兜をかぶっていた。秘蔵の川原毛(朽葉を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒く、背筋に黒い筋があるもの)の馬には、金覆輪(きんぷくりん)の鞍が用いられたという。
鞍には真田家の旗印・六連銭の紋が描かれ、紅の厚総(馬の頭や胸や尻にかける組紐)が掛けられていた(『幸村君伝記』など)。これだけ目立つ真っ赤な軍装ならば、遠くから一目で信繁(あるいは信繁が率いる軍勢)と認識されたはずである。
現在、大坂の陣を描いた屏風絵は、たくさん残っている。大坂の陣で信繁は獅子奮迅の活躍をしており、屏風絵でも一際目立って描かれている。その「赤備え」は、徳川方を威嚇する大きな効果があった。その中でも、晩年の信繁は髭が白髪で歯が抜けていたというが、戦場では映えていたのである。
歴戦の勇士を揃えた越前松平氏の兵卒も、赤い躑躅(つつじ)の華が咲き乱れたような信繁の「赤備え」を目にすると、恐怖で体を震わせたという(『武徳編年集成』)。松平忠直は湯漬けを食べながら、「飯を食ったら餓鬼道へ落ちないので、死出の山も越えるのはたやすい」とおどけたという逸話がある。