大坂の陣で秀頼が真田信繁に示した破格の条件とは?
歴史研究最前線!#052 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁⑱
関ヶ原合戦の功績から秀頼に破格の条件で招かれる

現在の大阪城公園内にある極楽橋。大坂夏の陣や明治維新の大火を経て、再架橋されている。竹生島(滋賀県)の宝厳寺観音堂には、豊臣時代に建造されたと伝わる極楽橋の唐門が移築されている。
信繁の率いた軍勢は『真田家譜』では150人、『高野春秋』では300人、『武内伝』では130人とそれぞれ記されており、約6千とはあまりに誤差がありすぎる。約6千の大軍勢で九度山から移動すれば目立つため、信繁は秘密裏に大坂城に入城したと考えられるので、実際はせいぜい150人から300人程度の人数が妥当ではないだろうか。
ところで、『駿府記』慶長19年(1614)10月14日条には、秀頼は当座の音物(いんもつ/好意をあらわす贈り物)として信繁に黄金200枚、銀30貫目を与え、信繁は秀頼の待つ大坂城に入城したと記されている。
秀頼が信繁を誘ったのには、大きな理由があった。関ヶ原合戦の際、信繁は父・昌幸とともに寡兵を率い、上田城で秀忠の大軍勢を食い止め遅参させた。この功績は大きかったといえよう。信繁の家柄の良さもさることながら、過去の戦いの実績が評価され、大いに期待されたのは間違いない。
いずれにしても黄金200枚、銀30貫目という金額は大金であり、当座とあるので徳川方に勝てば成功報酬があったのかもしれない。信繁は迎えられるに際して、秀頼から破格の条件を提示されたのである。
『大坂御陣山口休庵咄』に書かれた「信繁に50万石を与える」という条件とは違っているが、好待遇で迎えられたのには変わりがない。信繁は経済的に厳しかったので、またとない申し出であった。
信繁が好待遇で豊臣方に招かれたことは、ほかに史料にも書かれている。
秀頼が信繁を迎えた際、高野山に蟄居(ちっきょ)していた信繁に対し、聘礼(へいれい/人を招聘するときの礼物)を厚くしてしきりに招いた(『真武内伝』)。そして、秀頼は当座の音信(賄賂に類する進物)として、黄金200枚、銀30貫目を贈ったと記されている。『駿府記』とまったく同じ条件である。
このように信繁を迎えた際の条件は、史料によってさまざまであるが、厚遇されたのは間違いないようだ。信繁が豊臣方に与した理由でもある。