古代エジプト王国にいた「ブラックファラオ」とは何者か? 分裂したエジプトに再び秩序をもたらした驚くべき歴史の真実
本当はおもしろい「古代エジプトの歴史」入門
■古代エジプト王国を治めた「異国の王」たち
古代エジプト王国のファラオと言えば、ラムセス2世にツタンカーメン、女王クレオパトラ7世、あるいは古代エジプトの歴史に少し詳しい方は、ハトシェプスト女王や異端の王アクエンアテンを思い浮かべるであろう。しかしながら、古代エジプト史は、最初に統一王国を打ち建てたナルメル王からローマ帝国に敗れたプトレマイオス朝のクレオパトラ7世まで、約3000年の長い歴史を有する。
そのなかには、純粋なエジプト人ではない、明らかに異国をオリジンとした王たちもいた。キアンやアペピなどの第二中間期(紀元前1650-1539年頃)のヒクソスの王たち、シェションクやオソルコンなどの第三中間期(紀元前1069-664年頃)のリビア起源の王たち、エジプトを征服したペルシア帝国のダレイオス、マケドニアから来たアレクサンドロス大王、そして彼の後継者であるプトレマイオス王朝の王たちだ。なかでも現スーダンに相当するヌビアからやってきた人物たちがファラオとなった例が知られている。第三中間期直後の古代エジプト史で第25王朝と呼ばれている時代だ。
しかしながら、その肌の色から「ブラックファラオ」(写真1)と称される古代エジプト王たちは、武力によって当時のエジプト王国を征服したわけではなかった。確かに『旧約聖書』のなかでも描かれた彼らは、圧倒的な武力によってヒョウのごとく速攻でエジプトを制圧したとそこで書かれた。ただ事実はかなり違ったようだ。そのことは当時のエジプト国内の状況を知っていれば理解できるであろう。ナイル河の南方のヌビアからやって来たカシュタ王とその後継者ピイがエジプト国内に影響力を及ぼし始めた頃、エジプトはリビア起源のファラオたちが複数林立し、国内は分裂状況にあった。そのような時期に「ブラックファラオ」は、南からはるばるやってきたのだ。意外なことにそれは「豊かなエジプトを征服する」ためではなかった。分裂していたエジプトに再び以前のような秩序をもたらすためであったのだ。

(写真1)ブラックファラオのシャブティ
撮影:大城道則
複数の有力なリビア人ファラオたちによって国内が分裂し、一種の戦国時代の様相を呈していたエジプトは、国を一つにまとめる力を必要としていた。そこに現れたのが「ブラックファラオ」のピイ王であったのだ。ピイ王の力は圧倒的であった。そのことは、有名な「ピイの戦勝記念碑」(写真2)の上部で彼に跪く何人ものリビア人王たちが描かれていることからも明らかである。立場の違いは一目瞭然である。

ピイの戦勝記念碑
撮影:大城道則
ただ理解しておくべきもう一つ大事な点ある。それはピイ王の故郷であったヌビアが長らくエジプトから文化的影響を受け続けていたことだ。それゆえにエジプトの文化は、その頃にはヌビアの文化でもあったのである。最もわかりやすいのは、ヌビアには、ゲベル・バルカルと呼ばれる巨大な岩山があり、その麓には巨大なアムン神殿が築かれていたのである。そこがアムン信仰の聖地として現地の人々に崇められていたことだ。つまりエジプトの神がヌビアで崇拝されていたということになる。
常識的に考えれば、異文化・異民族の文化は受け入れがたいものだ。そのことは古代から現代にまで続くイスラエルとパレスチナの問題を見るだけで明らかであろう。たとえ世界が「多文化共生」や「異民族理解」を唱えようと、現実はそれほど簡単なことではない。しかしながら、長年ナイル河をエジプト王国と共有していたヌビアの人々は、それらを受け入れたのである。そこには古代世界では圧倒的に先進的な国であったエジプトへの憧れや崇敬の念があったのかもしれないが、そもそも数千年レベルで両地域の人々の交流が絶え間なく続いてきたことが最大の理由であろう。エジプトの宗教や文化を受け入れていた「ブラックファラオ」を中心とした人々は、古のエジプトに再び秩序をもたらすためにやって来たのだ。

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