名前は知っているけど「クレオパトラ」ってどんな女王だったの⁉
本当はおもしろい「古代エジプトの歴史」入門⑦
「世界の三大美女」としてだけでも知名度がある上、その3人のなかでももっとも世界中の人に知られているエジプトの女王・クレオパトラ。しかし日本では、知名度はあるものの、どのような女王であったのかはあまり知られていない。ここでは彼女がどのような政治を行ったか、どのような人物だったのかに迫る。
■ローマの英雄・カエサルを魅了した美貌と優れた政治手腕

【写真1】タップ・オシリス・マグナ
古代エジプト王国の女王クレオパトラと言えば、シェークスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』や往年の大女優エリザベス・テーラー主演のハリウッド映画『クレオパトラ』で知られる古代史を代表する人物である。そして紀元前30年、古代ローマ帝国がエジプトに宣戦布告すると、クレオパトラは屈辱的な敗北を避けるために自殺したことから、近代になるまでエジプトに永住した最後のエジプトの支配者でもあったのだ。しかしながら、現代世界における名声ほど彼女の実態は分かっていない。生前の姿がはっきりとイメージできるようなレリーフや壁画、彫像も少ない。その上、タップ・オシリス・マグナ(写真1)をはじめとして、これまで幾つかの候補が挙がっては消えて来た彼女の墓ですらいまだ発見されていないのである。
いわゆる我々が「クレオパトラ」と認識している人物は、クレオパトラ7世であることもあまり知られていない。クレオパトラという名前は人々に人気の名前であった。アレクサンドロス大王の将軍の一人であったプトレマイオスが基盤を創ったプトレマイオス朝時代におけるエジプトの7人の女王の名前にクレオパトラが付けられていたほどである。その最後の1人こそ、古代ローマ帝国の将軍ユリウス・カエサルとのロマンス、あるいは同じく将軍であったマルクス・アントニウスとのストーリーと悲劇的な最期を遂げたことで良く知られているクレオパトラなのである。話題に欠かない人生を送った人物であった。
その一方でクレオパトラは、女性でありながら古代エジプト王国の支配者として、ローマと親密な関係を築いていた父親のプトレマイオス12世と共同統治を行ない、彼の死後には古代ローマ帝国の実力者であったポンペイウスの後ろ盾を受けて、彼女の弟であったプトレマイオス13世と共同統治を行なった政治的手腕に優れた人物としても良く知られている。その後、単独の支配者としてプトレマイオス13世が王位を継ぐと姉と弟は対立し、クレオパトラはエジプトを追放されシリアへと避難した。一度は覇権争いに敗れて退いたクレオパトラだが、彼女は紀元前48年にカエサルの後見によって王国の権力の座に返り咲き、弟であり夫でもあったプトレマイオス14世と共同統治を行なったのである。この共同統治という手法が女性であったクレオパトラを国のトップに押し上げた要因の一つである。古代エジプトではしばしば安定して自分の後継者に王権を譲り渡すために共同統治が行われたのである。
ただしそもそも古代エジプト王国三千年の歴史の中では珍しくはあるが、女王=女性の王・ファラオは登場する。新王国時代の有名なハトシェプスト女王だけではなく、古王国時代のニトイクレトや中王国時代のソベクネフェルも女王として王位に就いたと考えられているし、アクエンアテン王の王妃ネフェルティティ(ネフェルトイティ)も夫の死後に名前を変えて王位に就いたのではないかと考えられているほどである。またクレオパトラの出自に目を向けてみると、プトレマイオスから続くマケドニア王国の習慣や慣習が入っていたはずなので、女性の支配者を受容する素地というものがエジプトよりもあったのかもしれない。
しかし、クレオパトラは支配者という立場にそれほど固執していたわけでもなさそうなのである。というのもカエサルと共に古代ローマ帝国の都ローマを訪問した二年後には、弟プトレマイオス14世を殺害し、カエサルとの子であった息子のカエサリオン(写真2)をプトレマイオス15世として古代エジプト王国の王位に就けたているからだ。しかも続いて彼女はカエサルの暗殺後にマルクス・アントニウスと結婚し、二人の間には双子ともう一人男児が生まれている。若い頃の彼女は確かにお家争いの真っただ中に身を置いて自らの保身と権力の掌握を求めてさまざまな策を弄していた感が否めないが、母となってからのクレオパトラは子供たちを守るために王権と関わっていたのであろう。