命を惜しまず、いざとなれば刀を振るう「カッコいい武士」は幻想!? 武士の多くは「剣術道場」にすら通っていなかった…
目からウロコの剣豪・剣術伝説
◼️実際の藩校道場は幕末になっても土間が多かった
武士の家に生まれた男子はみな子供のころから武芸、とくに剣術の稽古をしていた、と思い込んでいる人は多い。
つまり、全国諸藩の藩士の子弟はみな藩校の道場に通い、剣術の修行をしていた――と。
時代小説にも、藩校道場で切磋琢磨し、友情のきずなを深める若き武士を描いたものは多い。藩士の子弟たちの青春と言おうか。
ところが、有名な会津藩の日新館は寛政11年(1799)、水戸藩の弘道館は天保14年(1843)など、ほとんどの藩校の開校は江戸時代後期である。たとえば、弘道館の開校は明治維新のわずか25年前である。
ようやく幕末になって開校した藩校も珍しくない。
『国史大辞典』(吉川弘文館)の「藩校開設の状況」によると、全国の255校のうち、開校時期は、
寛文~正徳(1661~1715) 10校
享保~寛延(1716~1750) 18校
宝暦~天明(1751~1788) 50校
寛政~文政(1789~1829) 87校
天保~慶応(1830~1867) 50校
明治元~4年(1868~1871)36校
(年代不明4校)
と、江戸時代約260年間を通じて、全国の藩校のほぼ70%が後半の約110年間に開校している。年号が明治になってからの開校も14%である。
江戸時代前半の約150年間、全国の諸藩にはほとんど藩校はなかったのだ。つまり、藩校道場もなかったのである。諸藩の藩士の子弟はみな藩校道場で剣術修行をしていたなど、思い込みにすぎない。
じつは、武士の子供の初等教育(読み書きそろばん、剣術)は、主として男親(父親あるいは祖父)の役目だった。家庭で初等教育を受けたあと、親が教育熱心で、子供も向学心がある場合、儒学者など個人が主宰する私塾に通って学問を学び、個人道場(いわゆる町道場)に通って剣術の稽古をした。
しかし、親が家で子供の教育をするのは限界がある。また、私塾や剣術道場も義務教育ではないので、当然、通わない者はいた。いや、通わない者の方が多かったであろう。
かくして、生まれてこのかた剣術の修行はしたことがないという藩士がたくさんいたのである。江戸時代も後期になって、ようやく藩校道場ができ、組織的な剣術の稽古が始まった。
【図1】はいかにも武張った武士が描かれているが、幕末の風俗である。

【図1】剣術道場に通う武士。『嵯嶺奥猫魔多話』(楳田舎好文著、安政2年)国立国会図書館蔵
では、各藩の藩校道場はどんな状況だったか。
佐賀藩士牟田文之助(むたぶんのすけ)が嘉永6年(1853)~安政2年(1855)、およそ2年間の剣術修行を記録した『諸国廻歴日録』に、各地の藩校道場の様子が書き留められている。それによると、
・中津(大分県中津市) 藩道場 5.5m×18.2m 土間
・佐倉(千葉県佐倉市)藩道場 5.5m×10.9m 土間に畳敷き
・土浦(茨城県土浦市)藩道場 3.6m×9.1m 土間
・笠間(茨城県笠間市)藩道場 5.5m×9.1m 土間
・松山(愛媛県松山市)藩道場 土間に敷物、天井なし
・臼杵(大分県臼杵市)藩道場 3.6m×7.3m 土間
(単位はmに換算した)
という具合である。
土間とは、板張りではなく、地面と言う意味。
映画・テレビの時代劇で描かれる藩校道場はみな広々とした板張りである。
ところが、実際の藩校道場は幕末になっても、土間が多かったのだ。せいぜい、地面に古畳や筵を敷いたくらいだった。
足元の状況を考えても、現在の剣道のような素早い動きは不可能だったのがわかろう。
以上は諸藩の藩士の剣術事情について述べたが、幕臣(旗本・御家人)の教育水準にいたっては、お寒いかぎりだった。
そもそも、幕臣を教育する公的な機関はなかった。昌平坂学問所(昌平黌)はあったが、これは大学に相当する。
幕臣の子弟の教育は家庭、そして学問は私塾、剣術は町道場に任されていた。当然、文武ともに熱心ではない者は少なくなかった。
『幕末百話』(篠田鉱造著、昭和3年)は、幕末を経験した古老の懐旧談だが、明治初年、陸軍士官学校に入校した幕臣があまりに無教養なのに、教官たちはあきれたという――
(教官たちは)腹を抱えて笑い、
「諸君は旗本だとか御家人だとかいうて学問さらになく、ソレで士官となっておられたから、徳川も他愛なく亡びて、鹿児島の兵隊にやられたのじゃ」
無教養な幕臣は珍しくなかったのがわかろう。
剣術に関しても、幕末になって幕府は幕臣の子弟を鍛えるためにようやく講武所を作った。
だが、築地に講武所が開場したのは安政3年(1856)で、黒船来航の3年後、15代将軍慶喜の大政奉還の11年前である。あまりに、おそい。
もちろん、諸藩の藩士や幕臣には剣術に秀でた人物は少なくなかったが、あくまで個人として秀でていたのである。
「武士はみな剣術の修行をしており、いざとなれば刀を抜き、命を惜しまなかった」は幻想にすぎない。
【図2】も幕末の風俗である。
右の若い武士は剣術道場に稽古に通うところであろう。前髪があるので、まだ元服前である。

【図2】道場に通う少年。『南柯夢女舞衣』(楽亭西馬著、安政2年)国立国会図書館蔵