古代エジプト王国はすごい大きな国だったけど敵はいなかったのだろうか?
本当はおもしろい「古代エジプトの歴史」入門⑧
古代エジプトと聞くと、巨大な王国をイメージするが、そこを侵略する、もしくは敵対していた勢力はいなかったのだろうか? だれと戦い、巨大な王国は維持されたのだろうか?
■どの時代にも古代エジプト王国には敵が存在していた
エジプトはしばしば東西を砂漠に挟まれ、南に過酷な灼熱の土地であるヌビア、北に地中海があることから地理・地政学的に孤立しており、国内に外部世界からもたらされる影響が少なかったと考えられてきた。その孤立性が独特の文化・文明を育んできたのだとされてきたのだ。
しかしながら、それは半世紀前の考え方である。現在は、魅惑的な豊かなナイル世界に東西南北から人々=異民族が到来し、彼らのもたらした異文化・新しい文化を受け入れつつ繁栄したのだと理解されている。ただし古代エジプト人はすべての異民族に好意を持ち、受け入れていたわけでもなかった。そのことは、「九弓の敵」という言葉が存在していたことから明らかである。
「九弓の敵」とは、伝統的にエジプトの敵をさす古代エジプトの言葉である。弓はエジプトの敵を意味する象徴であり、また9という数字は「多数」を意味していた。「九弓の敵」を表すモチーフは、神殿のレリーフや王のための家具に描かれた。また玉座やその足載せ台、サンダルをはじめとする王の備品にしばしば用いられたのである。それは王が自らと王国の敵を象徴的に踏みつけることができるということでもあるのだ。九弓によって表された敵の正確な名称は、時代とともに変化したが、通常ヌビア人とリビア人(写真1)とは含まれていた。彼らが二大敵国であったのだ。古代エジプト王国は、その国土の豊かさのために常に敵に囲まれていたのである。

(写真1)リビア人
そのような異民族の敵としてヒクソスが知られている。彼らは第2中間期(紀元前1630-1520年頃)にデルタ地域からエジプトを支配した外国起源の第15王朝の王たちであった。おそらく東地中海沿岸辺りの出身であった彼らの第15王朝では6人の王が即位し、約1世紀エジプトを統治したと考えられている。ヒクソスたちは古代エジプト王の称号を用い、エジプトの政治や学問を否定することなく受入、古代エジプトのあらゆる伝統的宗教を保護した。後のギリシア・ローマ時代の文献の中でエジプトの敵として非難されているが、実際は外部世界からの情報や技術などをエジプトにもたらしたという点で功績を残したとも言える。
しかし、古代エジプト王国最大の敵と言えば、何と言ってもヒッタイト王国である。ヒッタイトは現在のトルコに相当するアナトリアで誕生した王国であった。都ハットゥシャ(ボガズキョイ)を中心に栄え、鉄の製錬技術に長けていたことで有名だ。近隣のミタンニ王国を征服し併合した後、ヒッタイトは帝国化し領土の拡大を続けた。その結果、徐々に古代エジプト王国と並び立つ勢力となり、そこに二国の競合関係が生まれたのである。当初両国の関係は良好なものであった。
新王国時代第18王朝のツタンカーメンの父としても知られるアクエンアテン王は、ヒッタイトのシュッピルリウマ王と同盟関係を結んでいたほどである。しかし徐々に両国の関係は悪化し、幾つかの大規模な戦いを経た後、有名なカデシュの戦いという局面を迎えるのである。当時のエジプト王ラメセス2世の軍とヒッタイト王ムワタリの軍とが現在のシリアにあった戦略的に重要な都市カデシュで激突した。戦いに関するエジプト側の記述が複数残っていることから、古代世界で最も状況が良く知られている戦いである。当時のスーパーネイションであったエジプトとヒッタイトとの軍事的衝突は、戦場を血で染めた壮絶なものとなったであろう。

(写真2)アブシンベル神殿
両国の戦いは、最終的にラメセス2世と新しいヒッタイト王ハットゥシリス3世との間で結ばれた平和条約で終焉を迎えた。エジプトのルクソール神殿やアブシンベル神殿のレリーフ(写真2)などに描かれたカデシュの戦いは、孤軍奮闘して敵を倒したラメセス2世の偉大なる勝利として表されたが、実態はヒッタイトの方が優勢であったとの見解も多く、引き分けであったという理解が妥当であろうと考えられている。両国による同盟は、ラメセス2世とヒッタイトの王女との政略結婚によってさらに強固なものとなった。ヒッタイトの軍人の中にはその後エジプト軍に仕えた者もいた。
どの時代にも古代エジプト王国には敵が存在していたが、ヒクソスやヒッタイトのようにエジプト文化を受け入れたり、エジプト人化して行く現象を考えると、いかにエジプトが強烈なインパクトを周辺の人々に与えていたのかが良く分かる。