関ヶ原の戦いで敵味方に分かれた真田昌幸・信繁・信之の苦悩【後編】
歴史研究最前線!#038 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁④
「勝っても負けても真田家は存続する」昌幸の合理的な策略

沼田城跡(群馬県沼田市西倉内町)にある、真田信之・小松姫の石像。
真田家では、親子が東軍(徳川方)、西軍(豊臣方)に与し、敵と味方に分かれて戦うという異常な事態になった。そのときの状況は、次のように狂句に詠まれた。
「東西に みごろを分ける 真田縞」
「たね銭(信之)が 関東方(徳川方)に 残るなり」
「銭つかひ 上手にしたは 安房守(昌幸)」
では、なぜ昌幸はそのような選択をしたのだろうか。
『滋野世紀』などによると、理由は「家のため」であったという。親子が敵と味方に分かれて戦っても、どちらかが勝つのは間違いない。戦いの結果がどうであれ、真田家は必ず存続する。苦渋の選択であったが、合理的な考え方であったといえよう。勝った方は、負けた方の赦免(しゃめん)をすることも計算済みだったに違いない。
家康は信之を褒め称え、父・昌幸の上田(長野県上田市)領を与えることを約束した。『真田記』によると、家康は信之に対して「伊豆守(信之)が忠義の程山よりも高く、海よりも深し」と述べ、差していた脇差を与えたといわれている。
ところで、その後の状況については、おもしろい逸話が残っている。昌幸は犬伏から上田城に戻る途中、孫の顔見たさに信之の居城・沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄った。
しかし、留守を預る小松姫は「義父とはいえ、敵味方に分かれた以上、城に入れるわけにはいきません」と昌幸の申し出を拒否し、さらに「私が自らわが子を刺し殺し、自分もまた自殺して城に火を掛けるつもりです」まで言った。
仕方なく昌幸はその場を去ったが、正覚寺で休息していると、小松姫が昌幸のもとに子供を連れてやって来たという。これには異説もある。
昌幸は門を打ち破って城に入ろうとすると、薙刀(なぎなた)を手にし甲冑(かっちゅう)に身を包んだ小松姫が門まで走ってきた。
そして、「門を開けようとするものは何者か。殿(信之)が出陣中の留守のところに狼藉(ろうぜき)に及ぶのは曲事(くせごと)である。皆出て討ち取れ」と配下の者に命令じ、続けて「私は本多忠勝の娘であるとともに、家康公の養女で娘でもある」と述べた。
昌幸は「武士の娘はかくありたいものだ」と言い残した。あくまで小松姫は、徳川方の女性だったのだ。