英雄視された真田信繫(幸村)と和歌山県に残る生存説
歴史研究最前線!#080 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊻-最終回-
真田信繁が、大坂の陣を迎える前に幽閉されていた九度山(和歌山県伊都郡九度山町)がある和歌山県には、信繁の生存説が残っている。その生存説の裏には、長い間戦い続けた信繁と家康に対する大衆の願望があった。

上田駅(長野県上田市)前にある、真田信繁騎乗像。上田城築城400年を記念して建てられたもので、赤い旗には真田氏のシンボルとして知られる六文銭があしらわれている。
大坂夏の陣で亡くなったはずの真田信繁が生存していたという逸話が、今の和歌山県に残っている。
高野山の麓の橋本(和歌山県橋本市)に住む奈良屋角左衛門は、九度山(同九度山町)の信繁を訪ね囲碁の相手をすることがあった。
信繁は大坂城に赴く際、角左衛門に碁盤と碁石を与えた。大坂落城後の春、信繁の馬の口が角左衛門のもとやって来て、信繁が無事であるという伝言を伝えた。
角左衛門は、信繁がどこに住んでいるのか馬の口に尋ねたが、「教えない」という信繁の意向もあり、知ることができなかった。
以降の5年間、年に1回は信繁の馬の口が来て、角左衛門に信繁の伝言を伝えたが、6年目には来なくなった。信繁が亡くなったためか、信繁の馬の口が亡くなったためか不明であるという。
信繁の代わりの者が、九度山周辺にあらわれるエピソードはほかにもある。『久土山比工の物語』によると、元和2年(1616)正月、どこからともなく侍が九度山にやって来て、昌幸の墓でお参りをしていた。
下山した侍は、信繁の旧縁の家で泊まり帰ったという。その後、侍は9年間お参りに来たが、10年目からは来なくなった。侍は、信繁公の代参と伝わった。
『古留書』には、真田家の家臣・玉川氏の配下の者が、伊勢へ毎年代参したというエピソードを載せている。
話は先述のものと大同小異で、信繁はどこかで生きているが、それは明らかにされない。代参者が来なくなったのは、代参者が亡くなったか、信繁が亡くなったかという結論である。
こうした話が伝わるのは、人々の間に「信繁に生きていて欲しい」あるいは「捲土重来して家康を討ってほしい」というような願望があったからだろう。いわば、信繁は人々にとって、再度の登場が熱望される英雄だったのだ。