イギリス商館長リチャード・コックスの日記に残る豊臣秀頼・真田信繫生存説
歴史研究最前線!#079 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊺
大坂夏の陣で徳川軍と一戦を交え、その生涯を終えた真田信繁には、多くの生存説が残っている。今回は英国人の商館長リチャード・コックスの日記に残る生存説について、その真偽を考察する。

リチャード・コックスは江戸時代初期に日本の平戸にあったイギリス商館長を務めた英国人。在任中に記した公務日記「イギリス商館長日記」は、日本国内の様々な史実を伝える史料として高い評価を得ている。
大坂夏の陣において、真田信繁が死んだのは確実だったが、一部では「生きている」という噂も流れた。『リチャード・コックス日記』によると、豊臣秀頼と真田信繁が薩摩あるいは琉球に逃れたという噂が流布していことがわかる。
当時、京童部(きょうわらわべ)は「花の様なる秀頼様を 鬼のやう成る真田が連れて 退きものいたよ加護島へ」と歌っていたという。
文中の「真田」は「信繁」、「加護島」は「鹿児島」を意味する。鬼のような体つきの信繁が花のように美しい秀頼を連れて、鹿児島に脱出したという意になる。
ところが、信繁は白髪頭で歯が抜けており、秀頼はかなり大柄であったという。およそ実態とは掛け離れているといえよう。ただ、信繁や秀頼が薩摩にいたとの伝承が残っているのはたしかなことだ。
『採要録』によると、谷山村(鹿児島市)に秀頼の墓があったという。この村には秀頼の子孫という「本木下」と「脇木下」(木下は、かつて秀吉が名乗っていた姓)という二家があり、それぞれが家系図を所蔵していた。系図には「豊臣右大臣(=秀頼)」と書かれており、人には決して見せなかった。
元和年間の初頭、この地に名前のわからない牢人が住み着き、国主(=島津氏)から居宅が与えられ、相応の金銭が与えられたらしい。
この牢人は酒好きで、酔ってはいつも意味不明なことを話し、遊んでばかりいた。疲れると路上で寝たり狂人のようだったので、「酔人の俗言」とあだ名された。
国主は、この人物が何かトラブルを起こしても、疎略(そりゃく)な扱いをしないよう命じたので、誰も相手にしなかった。
この男は、中年になって谷山で没した。内々の話では、この男は秀頼だといわれ、容姿は面長で愚かに見えたという。
浄門ヶ嶽(鹿児島県南九州市)の麓にも、どこからとなく山伏が来て住んだという話が残っている。この人々から恐れられた山伏は、信繁であったというのだ。つまり、信繁と秀頼の2人は、薩摩で生き長らえたということになろう。
木村重成も薩摩へ逃れ、加治木浦(鹿児島県姶良市)で有岡半右衛門と名を変え、谷山(秀頼と称する人物の居所)をたびたび訪問したという。3人はあるとき、夜中のうちに鹿児島を往来したとの逸話がある。
『採要録』には「この話は分明ではないが、地元の人が語る言葉を記して置くものである。信じるわけではないが、捨て置くものでもない。のちの人の考証に委ねるべきであろう」と書かれている。やはり単なる逸話なのだろう。