史料から読み取る豊臣秀頼と淀殿の最期
歴史研究最前線!#077 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊸
慶長20年5月7日(1615)、大坂城は大坂夏の陣で敗れた豊臣方とともに落城した。敗北とともに死を迎えた、豊臣秀頼と母・淀殿の最期の様子について、さまざまな史料から読み解いていきたい。

現在の大阪城天守閣。現在は、徳川幕府により建造された櫓や門と、1931年(昭和6年)に復興された天守を目にすることができる。
慶長20年(1615)5月8日、豊臣秀頼(ひでより)と母・淀殿(よどどの)は城中で自害した。大野治長(おおのはるなが)、速水守久(はやみもりひさ)らの武将や女中らも、これに殉じて亡くなったという。秀頼の死により、豊臣家は滅亡に追い込まれたのである。
秀頼と淀殿の最期については、多くの記録が残っている。『言緒卿記』には、秀頼が矢倉の脇におり、淀殿の次に助命嘆願の言葉を述べたと書かれている。
ところが、徳川方の軍勢が押し寄せたので、そのまま観念して切腹したと記されている。ちなみに、『舜旧記』にも秀頼・淀殿が自害したと書かれている。
では、秀頼と淀殿の2人は、どこで亡くなったのだろうか。『春日社司祐範記』には、大坂城内の千畳敷で秀頼・淀殿の以下が自害したとある。
その後、城に火が放たれ、名物の茶道具も焼けてしまった。2人が千畳敷で自害したことは、「薩藩旧記雑録後編」所収文書にも書かれている。
以上の記録を考慮すると、秀頼と淀殿の2人は大坂城の千畳敷で亡くなったということになろう。しかし、違った記述も確認できる。
『本光国師日記』には、「5月8日、大坂城中の唐物倉に秀頼ならびに御袋(淀殿)、大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)以下、付女中衆が数多く籠もり降参してきた。井伊掃部(直孝)、安藤対馬(守重)が検使として詰め、倉へ鉄砲を撃ち掛け、皆殺しにし火を掛けた」と書かれている。
この記述を見ると、追い詰められた秀頼らは唐物倉(からものぐら)に籠もったが、降参を認められず、井伊直孝らの鉄砲で射殺された。秀頼と淀君は自害したのではなく、鉄砲で撃ち殺されたのだ。
情報が錯綜していた可能性もあるが、『本光国師日記』は切腹すら許されない、豊臣家の哀れな姿をあえて描き出したのかもしれない。