名門・豊臣家の末裔として生涯を終えた奈阿姫と国松
歴史研究最前線!#078 敗者の大坂の陣 大坂の陣を彩った真田信繁㊹
大坂夏の陣での敗北後、豊臣家の末裔として8歳の国松と、7歳の長女・奈阿姫(なあひめ)が生き残った。その後の2人の生涯は、一体どのようなものだったのだろうか?

江戸時代前期に建てられた鎌倉・東慶寺の仏殿。現在は神奈川県横浜市中区にある三溪園(さんけいえん)に移築されている。三渓園は、実業家の原三溪が造り上げた日本庭園(国指定名勝)で、明治時代後期に移築された。
大坂夏の陣で、大坂城が落城した後、残った豊臣家の関係者の扱いはどうなったのであろうか。秀頼と正室・千姫(せんひめ)の間に実子はいなかったが、側室との間には2人の男女の子供がいた。2人が徳川家から追及されたのはいうまでもない。
秀頼の長女が奈阿姫である。奈阿姫は慶長14年(1609)に誕生し、大坂城落城時はまだ7歳の子供にすぎなかった。
落城後、千姫は奈阿姫の助命嘆願を家康にしたという。家康は奈阿姫が出家して東慶寺(神奈川県鎌倉市)に入ることを条件にして、千姫の要望を受け入れた。東慶寺は「縁切寺」として有名な寺院で、離縁を希望する女性が駆け込んだ。
条件を受け入れ出家した奈阿姫は、天秀尼(てんしゅうに)と名を改め東慶寺の第20代住持に就任した。住持になった天秀尼は、東慶寺の縁切寺としての寺法存続を家康に申し出て許可された。
さらに、天秀尼は千姫らの援助により客殿、方丈の再興を行った。天秀尼が亡くなったのは、正保2年(1645)である。37歳という若さだった。
秀頼の長男が国松(くにまつ)である。国松は慶長13年(1608)に誕生し、大坂落城時はまだ8歳の子供にすぎなかった。
『細川家記』によると、国松は乳母と脱出したが、伏見町に潜伏しているところを5月22日に見つかったという。
その後、国松は京都所司代・板倉勝重のもとに連行された。徳川方は執拗に国松の行方を捜していたので、逃亡は困難だったと考えられる。
翌日の5月23日、国松は六条河原で斬首された。処刑の様子は、『日本切支丹宗門史』に詳しく記されている。
国松は天下人の家康に対し、これまでの秀吉と秀頼への背信行為を責めたという。そして、最後は自ら首を差し出し、国松は斬首されたのである。
国松は8歳の子供だったが、名門・豊臣家の1人として堂々とした態度であったように描かれている。ただ、国松の態度を引き立てるため、少しばかり誇張して書かれた可能性もある。
国松の死は、斬首の様子を見物した人々の悲しみを誘った(『梵舜日記』)。徳川方に与した細川忠興(ほそかわただおき)も、国松の死を悼んだ(『細川家記』)。しかし、敗者の子孫に悲劇的な運命が待っているのは、洋の東西を問わず同じである。
国松の墓は、最初は誓願寺(京都市中京区)にあったが、のちに豊国神社(同東山区)に移された。2人の死によって、豊臣家は完全に断絶したのである。秀吉の豊臣家存続という夢は、ここで完全に断たれたことになろう。