真田昌幸が「信用」されても「信頼」されなかった理由
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第3回
■能力の高さゆえの警戒心

関ヶ原の戦いののち、真田昌幸は子の幸村とともに九度山(和歌山県伊都郡九度山町)にある善妙称院(現・真田庵)で蟄居後の生活を過ごした。
真田昌幸(さなだまさゆき)は、大阪の陣で活躍した真田幸村(ゆきむら/信繫)の父、または寡兵で強兵と渡り合う希代の策略家や戦術家というイメージが強い戦国武将です。
特に、第一次上田合戦で徳川軍を撃退するなど、指揮官としての実力は折り紙付きです。徳川や上杉、北条などの大勢力を渡り歩きながら真田家の勢力を拡大していった戦略家でもあります。
これらの実績や能力が豊臣秀吉に評価されて、独立大名として取り立てられます。
もし、関ヶ原の戦いで昌幸が大軍を指揮していたら、その結末も違ったものになっていたかもしれません。
しかし、最終的に大軍を動員できるほどの領地を与えられる事はありませんでした。
その理由として、時の権力者からその能力の高さは認められつつも、その老獪さに警戒心や不信感を持たれてしまった可能性があります。これには、昌幸に対する「信用」と「信頼」が関係していると思われます。
■「信用」と「信頼」の違い
一般的に「信用」と「信頼」は同様のものとして捉えられがちですが、『新語時事用語辞典』などによると、それぞれの意味や使い方には大きな違いがあります。
「信用」は主にその人の実績や成果を元に評価する事を指します。過去に積み上げてきたものに対して信じる事です。
一方、「信頼」はその人の人柄や態度、立ち振る舞いなど人間性を評価する事を指します。今後の保証がされてなくても安心して任せる事を指します。
例えば、能力や実績を認めていても、無条件ですべてを任せる事はできない場合は、その人を信用していても信頼していないということになります。
現代のビジネスにおいても、過去の実績や能力から信用はしていても、すべてを委任できない取引先、または同僚や部下がいる例があるのではないでしょうか。それは、その取引先や同僚や部下の、これまでの仕事への対応や姿勢に対して、どこか不信感を持っているからです。
まさに昌幸も同様の評価だったのかもしれません。秀吉から信用を勝ち取るほどの能力を持ちながらも、その老獪な立ち回り方が災いして信頼を獲得できなかったように思われます。
■大勢力を渡り歩き勢力拡大に成功
真田家は父幸隆(ゆきたか)の時代に武田家に服属し、信濃先方衆として戦功を上げていき、最終的には武田二十四将にも数えられるようになります。
幸隆の三男である昌幸は、武田信玄に奥近習衆として仕え、信玄から高い評価を受けて譜代家臣並みの扱いを受けるようになりました。信玄の側近くでその戦術や外交に触れて、強い尊敬の念を持っていたと言われています。
信玄亡き後は、次代の勝頼にも仕えましたが、信玄時代ほど重用はされず、自領の経営に専念していたようです。結果として武田家の中枢にいなかった事で、織田家による甲州征伐では見逃され、滝川一益(たきがわかずます)の寄騎へと組み込まれます。
その後は本能寺の変とそれに伴う天正壬午(てんしょうじんご)の乱において、徳川家や上杉家、北条家を翻弄しながら、真田家の生き残りと勢力拡大に成功します。
この天正壬午の乱にて、徳川家を撃退した第一次上田合戦は有名です。そして、この活躍によって豊臣政権から信用を獲得し、独立した大名として認められます。
この時、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と賞されています。
■「信用」されても「信頼」されない
これは「比興=卑怯」という意味ではなく、従属先を変えながら勢力拡大を続け、寡兵で大軍との戦闘にも勝利する老獪(ろうかい)さを称える表現と言われています。
ただ、この表現はポジティブな意味だけでなく、どこか警戒心が含まれている例え方だと言わざるを得ません。字の通りネガティブな評価だと言われる事もありますが、この言葉には、どちらの意味も含まれているのではないでしょうか。
実際、豊臣家の直臣となったものの、長男の信之に沼田2万7000石を分割したことで、昌幸の所領は上田3万8000石のみとなりました。関東へ移封される徳川家へ配慮した結果でもありますが、結果的に昌幸の動員兵力に制限が設けられた形になりました。
一方、長男の信之は徳川家の寄騎となり、家康の養女を娶(めと)り譜代に準ずるような扱いとなります。次男の信繫も秀吉の馬廻りとなり、大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を娶り、昌幸とは別に19000石を領するなど厚遇されます。
息子たちが信頼を得ていく中、昌幸はその能力を活かせる機会を与えられる事がほとんどありませんでした。記録として残っているのは、宇都宮家の改易に関わったことなどでしょうか。
天下分け目の関ヶ原の戦いの前夜においても同様でした。懇意にしていた石田三成からは、事前の相談がありませんでした。その事で、昌幸がクレームを入れて三成が弁明している書状が残されています。情報漏洩を警戒したのかもしれませんが、老獪な昌幸への警戒心があったのかもしれません。
■死後まで警戒され続ける
第二次上田合戦と呼ばれる戦いで、昌幸は2000ほどの兵で秀忠率いる徳川家本軍3万8000に立ち向かいます。昌幸は帰順すると見せかけて籠城するなど、またも徳川軍を翻弄するような戦い方を見せます。
まさに「表裏比興の者」の面目躍如です。
ただ、戦後に徳川家が権力を握った事で、この活躍は信頼を失う以上のマイナスの効果を生みます。戦後の処分において、家康から改易と死罪という厳しい処罰が下されたのです。信之と妻小松姫(こまつひめ)の父である本多忠勝(ほんだただかつ)の奔走により、九度山(くどやま)へ配流へと変更となりますが、昌幸に対する家康の憎悪に近い感情が伺えます。
その後、昌幸は赦免(しゃめん)活動を行いますが、相手にされることはなく、九度山でそのまま一生を終えます。
そしてその死に際して、徳川幕府は昌幸の葬儀を許しませんでした。
■信頼の獲得は信用を得るより難しい
関ヶ原の戦いで西軍として改易になった武将の中には、その後大名として復活した者たちがいました。立花宗茂(たちばなむねしげ)や丹羽長重(にわながしげ)は、その実績や能力に加えて、その人間性が家康から評価され大名として復帰しました。
また、新庄直頼(しんじょうなおより)は家康と個人的に交流があった事で復帰できています。
いつの時代も上から信頼されることは出世において重要な要素のようです。昌幸も信用だけでなく、信頼も合わせて獲得できていれば、豊臣政権下での立場や関ヶ原の敗戦後の処罰内容なども変わっていたかもしれません。
とはいえ、あの状況下で真田家の独立を維持するためには、必要な立ち回りだったのでしょう。
今も昔も他人から信頼を得るのは難しいものです。現代においても、実績や成果を上げる事よりも容易ではないと思います。
ただ、昌幸が幕末まで続く真田藩の礎を作った偉大な創業者であることは間違いありません。