毛利輝元の野望を阻んだ「組織風土」の壁
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第2回
■毛利輝元の評価に影響を与えた「毛利家」という組織

萩城跡(山口県萩市堀内)にある毛利輝元銅像。萩城は輝元が指月山麓に築城したことから、別名「指月城」とも呼ばれた。
一般的に、毛利輝元(もうりてるもと)の評価はあまり高いものではないようです。好きな武将ランキングに名前が出てくるイメージはありません。それは、祖父元就(もとなり)に過保護に育てられ、叔父の小早川隆景(こばやかわたかかげ)たちに支えられてきた御曹司という印象も大きいかと思います。
さらに天下分け目の関ヶ原の戦いで、徳川家康が率いる東軍と戦わずに降伏した事が追い打ちをかけているのかもしれません。
確かに、輝元自身に詰めが甘い点がありましたが、毛利家という組織自体にも問題がありました。毛利家の内部には輝元の意志や行動を制限しようという、見えない力が働いていました。
それは現代風に言うと「組織風土」です。
■組織風土とは?
企業が組織として年数を重ね、大きくなるにつれて、その組織の中だけの独自ルールや価値観、行動様式などが生まれてきます。それは組織風土と呼ばれています。
組織風土を構成しているのは、組織の構造や人事制度、就業規則など明文化されたものだけではありません。目に見えない慣例や習慣、価値観、行動様式なども重要な構成要素です。
そして、その組織のメンバーのモチベーションや行動様式に大きく影響を及ぼします。
良い効果を生むこともありますが、逆に成長を停滞させたり、危機に追い込んだりする場合もよくあります。現代でも、大手金融機関が持つ事なかれ主義という負の組織風土が原因で、何度もシステム障害を繰り返し、顧客からの信頼を大きく失墜させてしまった事例がありました。
■毛利元就が一代で築き上げた毛利家
毛利家は安芸の国人領主の家柄で、毛利元就の力によって、一代で周防(すおう)、長門(ながと)、石見(いわみ)、出雲(いずも)、安芸(あき)、備後(びんご)の6ヵ国を支配下に置きました。元就は、間違いなく戦国時代の中国地方の覇者です。
ただ、元就一代で急激に巨大化した組織のため、元就の死後、簡単に崩壊してしまう恐れがありました。元就は御家存続のため、息子や孫たちに手紙を送り、時には直接会って自身の考えを伝え続けました。
その中でも、毛利家に大きな影響を与えたと思われるものが次の2点です。
「両川を含めた集団指導体制」
「天下を競望せず」
この二つが毛利家の組織風土として浸透し、毛利家の戦略に影響を与えていきました。
■元就の意思が組織風土として醸成される
組織風土は、会社の組織構造や体制などの「ハード的要素」と、社員やメンバーの意識などの「ソフト的要素」で構成されると言われています。
当時の毛利家のハード的要素とも言えるのが「両川を含めた集団指導体制」です。元就は、若い輝元を支えるために、吉川家と小早川家の「両川」を含めた集団指導体制を構築します。
この体制により、小早川隆景や重臣たちの考えが、毛利家の外交や内政に大きく影響するようになりました。
輝元も最終局面になると彼らの意見に従う流れが定着していきます。
そして、この意思決定メンバーの心に深く浸透していたのが、「天下を競望(けいぼう)せず」です。これがソフト的要素にあたります。
元就は、今の成功は運が良かったからだとし、これ以上を望む必要はないと考えました。これを、輝元や隆景たちにも伝えていました。
元就の意志をよく引き継いでいた隆景は、現状勢力の維持に努める事を方針としました。実際に、輝元を諫めるブレーキ役となり、何度か訪れた中央進出のチャンスに手を出させませんでした。
そして、隆景の死後、その遺志を継いだのが吉川広家(きっかわひろいえ)です。広家も毛利家の現状維持のために奔走します。
■組織風土が毛利家の戦略を左右する
輝元は、何度か野心的な行動を見せます。1つ目は1578年の織田信長打倒のための上洛計画です。
輝元は、織田家領内での荒木村重や播磨衆の謀反に乗じ、足利義昭を奉じて中央へ攻め上ろうと決断しました。
しかし、隆景や重臣の反対で断念します。織田家の調略により毛利家内部も団結できていない状況で、上洛できるような状況ではなかったとも言われています。
2つ目は1582年の本能寺の変への対応です。講和した豊臣秀吉を背後から追撃して、織田家勢力を駆逐すべきという意見がありました。しかし、ここでも隆景や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)たちの反対を受けて静観するに留めました。
最後の3つ目は、秀吉亡き後の主導権争いです。この時の輝元は毛利家の防衛と勢力拡大を考えて、かなり意欲的に行動します。九州や四国へも軍を送り、関ヶ原の戦いの本戦でも多くの兵を派遣しました。
しかし、広家や重臣たちは、黒田長政を通じて徳川家との講和を進めていました。輝元の意志とは関係のないところで、現状維持という組織風土の力が働いていたのです。これには、広家や重臣を中心とした集団指導体制も大きく影響していました。
最終的に輝元は戦略の転換に迫られ、防長29万石へ大幅に減封されました。輝元の野心は、最後まで組織風土に阻まれるかたちになったのです。
■組織風土の変革に失敗
毛利家の組織改革の必要性を、輝元自身も感じていたようです。豊臣政権の末期ごろには、榎本元吉(えのもともとよし)、佐世元嘉(させもとよし)、張元至(ちょうげんし)など出自や経歴を問わず人材を積極的に登用しました。
当主と側近によるトップダウン型の政治体制に切り替えて、自分の意志を反映できる組織に変えようと行動し、「両川を含めた集団指導体制」からの脱却を図っていました。
この点を見ると、祖父の遺産に胡坐(あぐら)をかく、ただの凡庸な貴公子ではないように思えます。
しかし、その改革の途中で、関ヶ原の戦いが勃発し、この計画は頓挫してしまいました。そして皮肉にも、当主の権力はさらに制限されるようになります。
現代においても、組織風土の改革には、かなりの時間がかかります。また時間だけでなく、強力な意志とリーダーシップも必要です。
当主の権力が脆弱な一族であれば、尚更時間だけでなく、強い意志とリーダーシップが必要でしょう。
もしも、輝元がもう少し早く改革に着手できていれば、その後の歴史も評価も変わっていたかもしれません。ただ、組織風土を改革しきれなかった結果を考えると、その意志とリーダーシップの弱さが評価を下げている主な要因として考えられます。