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謎と疑惑に包まれた阿野全成の謀反【前編】

鎌倉殿の「大粛清」劇④

千幡(実朝)の後見として将来的な権力を持った存在

阿野全成
悪禅師の「悪」とは乱暴者の意。しかし、『吾妻鏡』では、源平合戦で活躍を見せることもなく、論功に名前が登場することもない。
国文学研究資料館蔵

 阿野全成(あのぜんじょう)の父は、源義朝、母は常盤御前(ときわごぜん)である。二人の間に長男として生まれたのが、幼名・今若(後の全成)だ。ちなみに、次男は乙若(後の義円/ぎえん)、三男は牛若(後の義経)である。

 

 つまり、全成は、源義経の実兄ということになる。全成は、父・義朝が平治の乱(平治元年・1159)で敗死したこともあり、戦後は出家させられ、醍醐寺(だいごじ)に入れられることになった。

 

 しかし、治承4年(1180)、以仁王(もちひとおう/後白河法皇の第3皇子)が平家打倒の令旨(皇族の命令文書)を発せられたことを知り、全成は醍醐寺を抜け出す。そして、修行僧に変装し、源頼朝(全成の異母兄)のもとに走るのである。『吾妻鏡』によると、全成が頼朝と対面したのは、治承4年10月1日、下総国鷺沼(しもうさのくにさぎぬま/千葉県習志野市)においてであった。遠方からはるばるやって来た全成の志に頼朝は感激し、涙を流した。

 

 全成は義経よりも早く頼朝に合流したことになる。頼朝は鎌倉に入って後、武蔵国の長尾寺を全成に与えている。全成が醍醐寺にいたこともあり、祈祷をさせようとしたのだろうか。また、全成は駿河国阿野(静岡県沼津市)を与えられたという。

 

期待された役割は祈祷僧? 掴みづらい全成の消息

 

 その後、全成が何をしていたのか、文治元年(1185)12月7日まで掴むことができない。『吾妻鏡』の同日の項目に「藤原公佐(ふじわらきんさ)は、頼朝の舅(しゅうと)の北条時政の外孫(そとまご/娘の阿波局/あわのつぼねの夫・阿野全成との間に出来た娘の婿)に当たる」との一文があるが、それにより、全成の消息が少しばかり見えてくる。

 

 ちなみに、阿波局は北条時政の娘である。よって、全成は結婚していたということになる。しかもその相手は頼朝の親族でもある北条氏の娘であった(頼朝は時政の娘・北条政子と結婚している)。全成と阿波局の間には娘もいたことが分かるし、その娘は藤原公佐(藤原成親/ふじわらのなりちかの子)という公家に嫁ぐことになるのだ。

 

 その後も、全成の消息は掴み辛いが、建久3年(1192)8月9日、全成の妻・阿波局が、頼朝の次男・千幡(せんまん/後の3代将軍・源実朝)の乳母となったことが『吾妻鏡』から分かる。

 

 全成は、末弟・義経のように平家討伐戦には参加していない(次弟・義円は1181年、平家方と墨俣川で戦い、戦死している)。『平家物語』や『吾妻鏡』に、全成が平家討伐の軍に加わったとの記述はない。二人の弟が戦場を駆け抜けているのに、全成がなぜ平家討伐戦に参戦していないのかは定かではない。頼朝が「全成は手元に置いておきたい」と思っていたので、関東に留まることができたのかもしれない。

 

 前述のように全成は醍醐寺にいたこともあり、また頼朝から長尾寺を与えられているので祈祷僧としての役割を期待されていたのではないか。一説によると、全成はかつて「悪禅師/あくぜんじ」と呼ばれていたという。「悪」には、豪勇の意もある。よって、全成も源平合戦に出陣していたら、義経と同様に、武功を立てたかもしれない。

 

 全成が幕府内で、どのような立場で何をしていたかについては史料がない。ただ、頼朝の異母弟で北条時政の娘婿でもあり、更には千幡(後の3代将軍・実朝)の乳父(妻・阿波局は千幡の乳母)であったことは確かである。千幡が成人するまで支える立場でもあり、仮に将来、将軍になったとしたら、乳父として権力を振るえる立場にあった。

 

 それは、千幡が将軍になることを望まぬ立場の者からすると、全成は邪魔な存在になりえたということである。しかも、全成の背後には縁戚の北条氏が控えている。北条氏を排斥したい御家人にとっても、全成は目障りな存在だったかもしれない。北条氏と縁戚になってしまったこと自体が、全成の後年の悲劇に繋がるのである。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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