頼家の生涯に影を落とした「梶原景時の変」【前編】
鎌倉殿の「大粛清」劇②
「話術に長けた武士」と評されていた景時

『吾妻鏡』には、義経に不満を覚える景時が頼朝宛に綴った書状の話が残っている。「源義経像」国立国会図書館蔵
梶原景時(かじわらかげとき)は、相模国(さがみのくに)鎌倉郡梶原郷(現・鎌倉市)を本拠とする武将である。景時は源頼朝に重用されたことで有名だが、頼朝挙兵時(1180年8月)には、頼朝に味方をせず、平家方に付いたとも言われている。
しかし『愚管抄(ぐかんしょう)』に「治承四年(筆者註=1180年)ヨリ事ヲ起シテ打出ケルニハ。梶原平三景時」と記されていることから、景時は最初から頼朝に味方していたのではないかとの解釈もある。後年の景時の出世を考えると、そう理解した方がスムーズなようにも思う。
『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると景時は「文筆の能力はないが、話術に長けた武士」と評されている。同書の紹介箇所に景時は頼朝のお気に入りとも書かれているので、景時は人に取り入る才能があったと言えようか。
話術だけではなく、暗殺や合戦もこなす武闘派な側面も
頼朝に仕えた頃の景時の最大の功績は、寿永2年(1183)に大豪族・上総広常(かずさひろつね)を誅殺(ちゅうさつ)したことだろう。景時は広常と双六をしている時に、盤を飛び越え、広常の首を掻き切ったという。
その後、景時は、頼朝の命令で、木曽義仲(きそよしなか)との戦に参陣。戦後、源義経や安田義定(よしさだ)はじめ多くの武士が、頼朝に戦勝報告の使者を寄越したが、討ち取った敵の死者や捕虜の名簿まで持ってこさせたのは、景時だけであったと言われる。
景時のこの対応に、頼朝も感心しきりだったというが、景時の用意周到さが窺える。木曽義仲打倒後は、平家討伐戦に移るが、景時は、源範頼(みなもとののりより/頼朝の異母弟)の幕下にあり、寿永3年(1184)2月の一ノ谷の戦いにも参加した。こうした活動が認められたのか、景時は同年2月18日に、土肥実平(どひさねひら)と共に、播磨(はりま)・備前(びぜん)など5カ国の守護(惣追捕使/そうついぶし)に任命されている。
元暦元年(1185)2月の屋島の合戦直前には、景時は源義経と論争になったと言われる。いわゆる「逆櫓(さかろ)論争」だ。
景時は軍船の前後に櫓を立てて、危うい時に素早く退く重要性を説くが、義経は「合戦に臨む武士が退くことを考えるのは有り得ない」と反対し論争になったという。
景時が義経のことを快く思っていなかったことは『吾妻鏡』(元暦元年4月21日)に載る頼朝への書状から分かる。書状には、義経が平家討伐の功績を己の手柄だと思っていること、平家滅亡後の義経は傲慢(ごうまん)になっていること、武士たちも義経を恐れ本心では従っていないこと、景時が義経に諫かん言げんすると処罰されそうになったことが記されている。
だが景時の主張が本当だとすると悪いのは義経と感じるのは私だけであろうか。
それはさておき景時は畠山重忠(はたけやましげただ)や夜須行宗(やすゆきむね)という武将を「讒言(ざんげん)」したという。重忠が一族と共に武蔵国に戻ったことを謀反の疑いありと頼朝に言上(ごんじょう)したり、行宗が壇ノ浦(だんのうら)の戦いで立てた功績を「ない」ものにしようとしたのだ(『吾妻鏡』)。後者の場合、景時は罰として鎌倉中の道路を整備する役目を担わされている。
あの景時が、罰を受けて道路を整備する役目を果たしている様を想像すると面白い。御家人の中には(いい気味だ)とほくそ笑んだ者もいたかもしれない。
監修・文/濱田浩一郎