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「梶原氏」は同族の「大庭氏」に従って平家方についた?

北条氏を巡る「氏族」たち⑤


2月27日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第8回「いざ、鎌倉」では、源頼朝(大泉洋)がついに鎌倉入りを果たす。あまりに急拡大した軍勢の統率に北条義時(小栗旬)が頭を抱えるなか、頼朝による反乱がいよいよ本格化しようとしていた。


 

わずかひと月半で形勢を逆転させる

神奈川県寒川町にある梶原景時館址。頼朝が景時を重用したのは、景時が和歌をたしなむほどの教養人だったため、幕府創設に欠かせない人材と考えたからといわれている。

 鎌倉へ向かう頼朝軍が武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県の東北部)に入った。その知らせは、中央政界で実権を握る平清盛(松平健)の滞在する福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区付近)にも届く。しかし、追討軍の派遣は清盛の三男である宗盛(小泉孝太郎)の差配によっていまだに実現していない。勢いづいた軍勢の脅威を恐れる清盛は、宗盛を激しく叱責。一刻も早い派兵を指示した。

 

 一方、頼朝軍には次々に人が集まってくる。挙兵時には敵方だった畠山重忠(中川大志)が降伏してきたり、源氏の嫡流をめぐって合流を拒んできた甲斐国(現在の山梨県)の武田信義(八嶋智人)も協力を約束したり、頼朝の弟である阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)もはせ参じた。膨れ上がった軍勢は約3万。平氏打倒の下準備が整いつつあった。

 

 ところが、強引さの垣間見える頼朝の采配に、家人たちから不満の声があがり始める。上総広常(佐藤浩市)に「烏合の衆」と評され、和田義盛(横田栄司)には「佐殿(頼朝)は近頃、ちょっと調子に乗ってねえか」などと言われる始末。そこで義時は三浦義村(山本耕史)の助言を受けて、家人たちの酒宴の場に頼朝を招く。滅多にない機会に一同は沸いた。酒の力により、頼朝と家人たちとの間に吹いていた隙間風はおさまった。

 

 石橋山での大敗北からわずか一か月半後、大軍勢となった頼朝軍は鎌倉入りを果たす。大庭景親(國村隼)や伊東祐親(いとうすけちか/浅野和之)ら平家方は、一気に形勢不利となった。しかし、特に打開策を講じることなく、潔く城を枕に討死する覚悟で迎撃する構えだ。

 

 その様子に愛想を尽かした梶原景時(中村獅童)は、大庭家から出奔。景時のもとを訪れた義時は、頼朝軍への加勢を打診した。

 

 その頃、頼朝は義盛と重忠に伊東の館への攻撃を密かに命じていた。伊豆から逃亡しようとして捕縛された、祐親の次男である祐清(竹財輝之助)から事情を聞いた義時は、伊東の館へ向かった。自身の祖父にあたる祐親と、祐親の娘で、義時が恋心を抱く八重(新垣結衣)を救うためだった。

 

頼朝の窮地を救った鎌倉幕府の初期の重鎮

 

 当時の梶原景時が根拠地としていたのは、現在の神奈川県鎌倉市梶原付近。現在の位置関係を見ても、頼朝が開発した鎌倉とは目と鼻の先であることが分かる。

 

 梶原氏のルーツは、室町時代初期に成立したとされる『尊卑分脈』によれば鎌倉権五郎景正(景政とする説も)とある一方、江戸時代に編纂された『群書類従』に収められた「三浦系図」には鎌倉権大夫景通とある。景正にしても、景通にしても、いずれも前九年・後三年の役に源義家の郎党として参戦していた武士で、当時には鎌倉氏を名乗っていた人物だ。

 

 鎌倉氏というのは坂東八平氏に数えられる関東有数の豪族のひとりで、それはすなわち、梶原氏が桓武平氏の庶流であることを意味している。

 

 これは、大庭景親の系図と重なる部分でもある。つまり、大庭御厨を継承した景正の子孫が梶原郷の地に進出し、開発していったのが、景時の祖先ということになる。

 

 景時の史料はほとんど残されておらず、生年すら分かっていない。動向がはっきりと文献に出てくるのは、頼朝が挙兵した1180(治承4)年8月からである。

 

 その時のエピソードは、ドラマにも描かれたように、石橋山の戦いで敗北し、洞窟に隠れ潜んでいた頼朝を見て見ぬふりをして逃した、というもの。敵方の大庭軍に従軍していた景時の機転で、頼朝が九死に一生を得ることとなったわけだが、これが両者の初対面となるらしい。この逸話は『吾妻鏡』に描かれているもので、軍記物の『源平盛衰記』にも似た内容が記されている。

 

 頼朝の挙兵時に、景時が大庭景親の軍勢に加わっていたのは、おそらく同じ鎌倉氏の一族という縁から、と考えるのが自然だ。

 

 同じ鎌倉氏をルーツにしているという点でいえば、大庭景親と同じく、梶原氏も源氏とは深いつながりがあったはずで、平治の乱(1159年)の際には敗北した源義朝の家人として従軍していたと考えられている。義朝が敗死したため平家に従うことになった大庭氏に、やむなくならったのだろう。

 

 頼朝の傘下に入った後は、敵方から降った者であるにもかかわらず、鎌倉幕府の重職に就任する。頼朝に特に重用された人物のひとりで、ドラマのタイトルとなっている『鎌倉殿の13人』のうちの1人でもある。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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