配流先の甲斐で名を揚げた源氏の嫡流「武田氏」
北条氏を巡る「氏族」たち③
2月13日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第6回「悪い知らせ」では、平家に苦しめられてきた者たちが団結すると同時に、潜伏を続ける源頼朝(大泉洋)が平家打倒の決意を改めて固めた様子が描かれた。
窮地を脱した源頼朝と坂東武者が再起を誓う

山梨県韮崎市に建つ武田信義の館跡。信義は13歳の時に館跡の近隣に位置する武田八幡宮で元服。墓もまた、館跡の近くの願成寺にある。
石橋山での大敗が広く知れ渡る一方、頼朝は山中に身を潜めていた。頼朝の首を付け狙う大庭景親(國村隼)配下による捜索が続くなか、梶原景時(中村獅童)になぜか見逃されるという幸運にも恵まれ、頼朝は引き続き、息を潜めて脱出する機会をうかがっていた。
甲斐の武田信義(八嶋智人)に頼朝への力添えを頼みに向かった北条時政(坂東彌十郎)と義時(小栗旬)父子だったが、頼朝には「源氏の嫡流」の座を譲らないという信義は、頼朝ではなく北条への援軍なら協力すると提案された。その代わりに頼朝の持つ後白河法皇(西田敏行)の院宣を求められ、二人はいったん頼朝の潜伏先に戻ることにした。すでに時政は頼朝の将としての器に見切りをつけており、武田氏の配下となることも厭わない様子だ。義時は時政を思いとどまらせようとするが、北条氏が生き残るための策を思いつかずにいた。
その後、三浦義村(山本耕史)らの手引きで安房国の安西景益(猪野学)のもとに身を寄せた頼朝は、すっかり戦に消極的になっていた。血気にはやる和田義盛(横田栄司)らの士気は高まる一方だったが、義村もこの戦には勝てない、と冷静に戦局を読んでいた。時政と同じく、義村もまた頼朝に見切りをつけていたのだ。
そんな時、義時は仁田忠常(にったただつね/高岸宏行)が北条館から持ってきたという観音像から、兄の宗時(片岡愛之助)が死んだことを悟る。それを知らされた時政は、宗時に代わり、北条の行く末を義時に委ねることを告げた。義時は、戸惑いながらも宗時の思いを受け継ぐことを決意。その決心は、源氏再興を諦めかけていた頼朝を揺さぶった。
「このままでは、石橋山で佐殿(頼朝)をお守りして死んでいった者たちが浮かばれませぬ」
義時は、すでに事態は頼朝の思いを超え、平家の横暴に耐え忍んできた者たちの不満が一つの塊になろうとしていると、渋る頼朝を説得したのである。
義時の思いに感化された頼朝は、再び平家打倒に奮い立つ。再起の手始めに、関東の豪族である千葉常胤(ちばつねたね/岡本信人)と上総介広常(佐藤浩市)を味方につけるべく、頼朝は義時を交渉役として派遣するのだった。
甲斐国に約400年もの間君臨した名門武田氏の始祖
ドラマの冒頭で義時らが助太刀を依頼した甲斐武田氏は、甲斐国(現在の山梨県)を長らく支配した一族。その始祖は、新羅三郎義光とも呼ばれた、源氏の嫡流にあたる源義光だ。その子である義清が甲斐国に住み始めたのが、武田氏の始まりである。
そもそもの発端は、義光が常陸国(現在の茨城県の大部分)に進出を図ったこと。この時、常陸国に送り込まれたのが義清だった。義清はそのまま常陸国吉田郡武田郷(現在の茨城県ひたちなか市)に移り住むことになり、地名から「武田」を名乗ったらしい。
ところが、1130(大治5)年に義清とその嫡男・清光は何らかの問題を起こして常陸国から追放されている。これは南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈』の記述によるもので、どうやら清光の不手際がもとで、父子ともども配流となったらしい。父子は甲斐国市河荘(現在の山梨県西八代郡市川三郷町)へ配流処分となった。この時に清光の子は逸見氏を継いでいる。
甲斐国に流された清光の子が、ドラマに出てくる信義である。信義は逸見氏を継いだ兄とは違い、源氏の嫡流を継承。甲斐国巨摩郡甘利荘地域(現在の山梨県韮崎市)に進出して本拠を置き、武田姓を名乗った。こうして信義は甲斐武田氏の初代としての地位を固めたのである。
なお、ドラマの中で信義は自身を源氏の嫡流と強調しているが、一方の頼朝は新羅三郎義光の兄・義家の系統である。
以仁王(もちひとおう)の令旨を戴いた1180(治承4)年に挙兵すると、信義は信濃国(現在の長野県)に侵攻し、平氏勢力を一掃。その勢いのまま、駿河国(現在の静岡県の東半部)も制圧。以降、頼朝と連携しながら平氏の追討に尽力することになる。
源平合戦においては甲斐武田氏の強大な軍事力を利用してきた頼朝だったが、次第にその存在感が無視できないほど大きなものとなると、謀反の疑いをかけて失脚させている。
その後、頼朝から重用されていた信義の五男・武田信光が甲斐武田氏を継承。その子孫が代々、甲斐国と安芸国(現在の広島県の西部)の守護を兼任して務めるなど、勢力を拡大していった。
この系譜は、戦国時代に活躍した武田信玄・勝頼父子まで続く。信義の子孫である信玄もまた、戦国最強の名をほしいままにするほどの軍事力を誇ったことはよく知られている。