平氏方に鞍替えした大庭景親ら「大庭氏」のルーツ
北条氏を巡る「氏族」たち②
2月6日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第5回「兄との約束」では、挙兵した源頼朝(大泉洋)が勝利から一転して窮地に立たされる様子が描かれた。敗走のさなか、北条義時(小栗旬)は、挙兵を先導してきた兄の宗時(片岡愛之助)から、意外な告白を受けることとなる。
北条宗時の挙兵の真意が明かされる

神奈川県藤沢市に建つ大庭城址の石碑。築城したのは大庭景親の父とされる。城は、後に太田道灌が居城としたり、小田原北条氏の配下が在城したと伝わる。
緒戦を勝利で飾った頼朝は、以降、平氏に取って代わり、土地の配分をはじめとした坂東での政を取り仕切ることを宣言する。
平氏政権からの信頼も厚く、東国の後見と呼ばれていた大庭景親(おおばかげちか/國村隼)は、頼朝の挙兵に激怒。3000の兵を伴って、頼朝征伐のため出陣した。
一方、源氏ゆかりの地である鎌倉へ向かうべく、頼朝は300の兵を率いて北条館を発った。しかし、雨で思うように進軍ができず、石橋山の山中で陣を布くことになった。頼朝らへの援軍を予定していた三浦氏も、酒匂川(さかわがわ)の増水で足止めを食らい、合流できずにいた。
頼朝軍にとって圧倒的に不利な兵力差のまま、両軍は激突。さらに、山の裏側に潜んでいた伊東祐親(いとうすけちか/浅野和之)の軍勢に挟み撃ちされたことで、頼朝らは敗走を余儀なくされた。
大勢の兵を失う絶望的な戦況にありながら、決して諦めようとしない宗時は、義時に「実は平家とか源氏とか、そんなことどうでもいいんだ」と密かに告白する。
「俺はこの坂東を俺たちだけのものにしたいんだ。西から来たやつらの顔色をうかがって暮らすのは、もう真っ平だ。坂東武者の世をつくる。そして、そのてっぺんに北条が立つ。そのためには源氏の力がいるんだ。頼朝の力がどうしてもな」
明くる日、軍を離れて北条館へ向かった宗時は、伊東祐親の放った刺客に襲われ、命を落としたのだった。
源氏との関わりが深い相模の豪族
源頼朝らの前に立ちはだかる大庭氏は、桓武平氏をルーツとする氏族といわれている。
正確な系譜は伝わっていないが、平安時代後期に奥羽地方で勃発した後三年の役の際に源義家方として戦った、鎌倉景政を始祖とするというのが一般的な説だ。鎌倉景政は、関東一円に勢力を誇った桓武平氏に連なる武士団の総称である、坂東八平氏の一人といわれている有力者である。
鎌倉氏は長治年間(1104〜1106)に相模国高座郡(現在の神奈川県藤沢市の一部)の開発に携わり、この地を本拠としたという。大庭御厨と呼ばれた所領は、景政の一族が代々、領主として君臨し、景政の孫である景忠(景宗とする説もある)の頃から大庭氏を名乗るようになった。この大庭景忠の子が、ドラマに登場している大庭景親である。
景親は、兄の景義とともに保元の乱(1156年)に従軍。保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇とが争った戦いで、この時、兄弟は後白河天皇方として参戦した源義朝の軍勢に加わっている。
保元の乱で左膝に大けがを負った景義は、隠居を決意。大庭家の家督を弟の景親に譲った。
兄弟の命運を分けたのが、その三年後に起こった平治の乱(1159年)だ。
平治の乱は後白河上皇の院政に反発した藤原信頼が源義朝とともに起こした反乱だが、平清盛によって鎮圧された。
この時も義朝に従って従軍した景親は、平氏に囚われの身となってしまう。死を覚悟した景親だったが、義朝との関係がそれほど深くないという理由で罪を許され、釈放された。
ドラマの中でも「我が命を救ってくれたのは平家である。その恩は海よりも深く山より高い」と語っていたように、命拾いした景親は、この処遇に対して大変な恩義を感じたという。そのため、以後は平氏に仕えることとなった。
平氏の栄枯盛衰を描いた『平家物語』には、景親が「恩こそ主」と述べた場面がある。長年行動を共にしてきた源義朝の息子である頼朝の挙兵に対して、景親が徹底抗戦の姿勢を貫いたのには、こういう背景があった。ただし、景親らは平治の乱に参戦していないとする説も存在する。
一方、あくまで源氏側につくと心に決めていた兄の景義は、頼朝の挙兵の際にすぐさま頼朝軍に参加。その戦功が認められ、後に鎌倉幕府入りを果たしている。
兄弟が源氏と平氏に分かれたのは不仲だったからとする説もあるが、『平家物語』の数多い異本のひとつである『源平盛衰記』には、頼朝から協力の要請がきた時に、兄弟が相談し合う場面が出てくる。そこでは、源氏方を離れ、平氏方につくと決めた景親の決断に、景義が理解を示す様子が描かれている。
大庭氏と源氏との関係は鎌倉景政の時代まで遡るわけだから、かなり長いといえる。しかし、景親の頃まで両氏の関係がずっと良好だったかというと、そうでもないらしい。
というのも、頼朝の父である義朝の軍勢が、大庭氏の本拠に攻め込んだとする記録が存在しているからだ。経緯の詳細は不明だが、ここにも景親が源氏から平氏に鞍替えすることになった事情があるのかもしれない。
いずれにせよ、源氏方についた景義の死後、跡を継いだ景兼が幕府の御家人の反乱に協力したことで、大庭氏は滅亡することとなる。
近年では、一族の一部が関東を脱して、大庭氏は生き延びていたとする研究もある。