北条義時の運命を変えた姉・北条政子と源頼朝の出会い
今月の歴史人 Part3
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が好スタートを切り、ますます注目を浴びる源平の歴史。ここでは伊豆へ流刑となっていた源頼朝の若き日々と、のちに妻となる北条政子との出会い、その周囲に勃発していた勢力争いについて、史料に基づき、わかりやすく紹介する。
頼朝を迎え保護する北条館で 政子の恋は実り未来を託す弟

源頼朝が流された蛭ヶ小島に立つ頼朝・政子夫妻の像
源頼朝は八重姫との間に恵まれた我が子・千鶴(せんつる)を失い、悲嘆に暮れるが、伊東祐親(すけちか)はそんな頼朝を討とうとする。「末代の敵」となることを恐れ、今のうちに始末してしまおうと考えたのだ。
兵を集めて夜討ちにしようとしたのだが、危機の頼朝に手を差し伸べたのも、伊東一族の者であった。伊東祐清(すけきよ)(祐長)、祐親の次男である。 祐清は頼朝に対し、その身に危険が 及ぶことを告げ、伊東から立ち去ることをアドバイスする。迷う頼朝に対し、祐清は「北条四郎時政を頼み、早く逃げるように」とさらに助言。 頼朝はそれに従い、伊東を出て、北条に向かう。

頼朝を救った伊東祐清 安元元年(1175)9月頃、 平家の家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、 頼朝に身の危険を知らせて逃がす。国立国会図書館蔵 系図/ ジェオ
明け方に頼朝が北条に到着すると、 時政は走り出てきて、頼朝の馬の手綱に取り付いて、涙を流したという。 そして邸に招き入れ、様々に世話をした。
小四郎義時が居住していた宿所から義時を出して、そこに頼朝を入れ、そこを「東の小御所」と称したそうだ。伊東から軍勢が攻め寄せてくることを警戒し、交代で頼朝を守護した。一方、伊東祐親は、頼朝が住んでいた「北の小御所」を焼き払い「誰が襲撃のことを知らせたのだ」と詮索したというが、北条にまで攻めてくることはなかった。
頼朝の北条入りを、時政は思いがけない幸運と思っただろう。源義朝(よしとも)の嫡男・頼朝を自らの手元に置くことは、権威や地位の向上に 一役かうと踏んだ可能性がある。
よって、時政は貴種・頼朝のために、北条邸の東に位置する蛭ヶ小島に「東の小御所」を用意した。
北条での生活をスタートさせた頼朝だが、またしても、恋をする。そのお相手が、北条時政の娘・政子で あった。安元2年(1176)の3 月中旬頃より、頼朝は政子に想いを寄せ、夜な夜な、通い始めたようだ。頼朝が伊東を出たのは前年の9月頃とされるので、立ち直りや手が早いと言えば早い。頼朝は時政が京に行っている最中に政子のもとに通い始めたとされ、伊東の場合と手口は同じだ。頼朝は政子と恋愛し、姫君(大姫)をもうけたという。時政は頼朝と政子の結婚を「我が子孫の繁昌す る予兆か」として喜んだという。
以上は『曾我物語』(妙本寺本)を基にした叙述である。頼朝と北条氏との接近を示す興味深い逸話であ ろう。頼朝と北条氏が接近していく様を義時はどう見ていたのだろう。 義時はまだ10代前半。源家嫡流の御曹司が北条にやって来たとの話を聞いて驚嘆はしたであろうがそれが北条氏にどのような作用を及ぼすかまでは思い及ばなかったに違いない。
監修・文/濱田浩一郎