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謎に満ちた【北条義時】の誕生と幼少期を探る

今月の歴史人 Part.1


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として注目を集める北条義時の生い立ちについては、実は謎が多い。父・時政からは、実は後継者として見なされていなかったとも言われている。後に幕府を牽引してくこととなる、北条義時の誕生と幼少期について探っていく。


 

謎が多き北条義時の前半生
源頼朝から穏便と評された幼少期

 

江戸時代の歌舞伎で演じられた北条義時。義時の肖像画はあまり残されていない。(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

 

 北条義時は、平安時代後期の長寛元年(1163)に誕生した。父は北条時政である。時政は、伊豆国(静岡県)の中小豪族で、一説には同国の在庁官人(諸国の政庁である国衙(こくが)で実務を担った地方役人)であったという。義時の母は、伊東祐親(すけちか)の娘とされている。前田家本「平氏系図」に「母伊東入道の女」とある。伊東入道というのが、伊東祐親のことだ。

 

 伊東氏は、伊豆国伊東の豪族であるが、その勢力は北条氏と比べて大きかったと推測される。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』を基に、北条氏の動員兵力を計測すると30騎前後となるのに対し、伊東氏は300余騎と推定されるからである。

 

 義時は時政の次男であるので兄がいた。兄の名は宗時(むねとき)。宗時は治承4年(1180)に亡くなるのだが、その際の享年が不明であり、生まれた年を明確にすることはできない。

 

 また義時には姉もいた。源頼朝の妻となり現代においても「尼将軍」として有名な北条政子だ。政子は保元2年(1157)に生まれたとされる。宗時と政子も、義時と同じ伊東祐親の娘から生まれたと思われる。

 

平治の乱で敗れた源頼朝が流されたのは伊豆国の蛭ヶ小島に立つ源頼朝・北条政子夫妻の銅像。

 

 義時はどのような少年だったのか。その事を裏付ける確かな史料は残されておらず想像を膨らませるしかない。

【0歳〜13歳頃 1163〜1175】誕生・育ち

 

 北条義時が養和元年(1181)、頼朝の寝所警護の筆頭として選抜されている事が想像の手がかりになるように思う。警護の士として選ばれている者たちは、弓箭(きゅうせん)の技に優れていたと『吾妻鏡』にはある。という事は義時も少年時代から学問に専心したというよりは、乗馬や弓の稽古など武芸に明け暮れたと思われる。やんちゃとまでは言わないが、それなりに活発な少年だったと推測される。単なる呑気なお坊ちゃんではなかったはずだ。では、義時の性格はどのようなものだったのか。これについても、寿永元年(1182)、頼朝が義時を評して「穏便(おんびん)」(『吾妻鏡』)と言っている事が参考になろう。

 

 義時は穏やかな心の持ち主だというのである。確かに長じてからの義時は他人に対して、親切にしている事も多いので、思いやりのある子供だったのではないか。「穏便」との義時評は、頼朝と義時のそれなりに長い付き合いのなかで発せられたものであるので、義時は頼朝と出会ってからも特段性格が変わったということはなかったように思う。

 

 宗時や政子という兄・姉との関係についても、詳しいことは分からないが、承久の乱の時、義時は政子に戦術の相談をしているし、それまでも喧嘩をしたという情報もないので、何でも気軽に話せる関係を築いていたのではないか。

 

 北条氏は桓武平氏(平安時代初期の桓武天皇の子孫で平の姓を賜った家系)の流れを汲むと言われているので、時政の正式な名乗りは平時政であるが、通常時の呼称は北条四郎時政であった。

 

北条義時、北条政子の父である北条時政。のちに源頼朝を支え、鎌倉幕府に大きな貢献をしていくことになる。(国立国会図書館蔵)

 

 ちなみに、平は姓、北条は苗字、四郎は仮名(通称)、時政は実名(諱)だ。北条氏は伊豆国北条(現在の伊豆の国市寺家)の豪族であったが、当時の武士は住んでいる所の地名を苗字にすることが多い。四郎というのは、4男の意味がある。時政は保延4年(1138)の生まれと推測されるが、その父は時家なのか時兼なのか明確にすることはできない。このことからも、伊豆にいた頃の北条氏は系譜がしっかりと伝わるような名家・大豪族ではなく、中小豪族だったことが裏付けられよう。

 

 義時は仮名を「小四郎」と称していたようだ。義時は実名である。実名は諱とも呼ばれ、一般的に主君や父母などの目上の者しか呼んではならないものだった。そこで実名に代わり、普段使われていたのが、仮名(通称)だ。

 

 よって、義時も、普段は「北条小四郎」と呼ばれていただろう。

 

 現代でいう成人式にあたる元服の儀式(一般的に15歳前後で挙行)において、仮名と実名を与えられる訳だが、その時にこのふたつの名を与えるのが烏帽子親(烏帽子とは成人男子が被っていた冠。成人の象徴の烏帽子を新成人に被せる役が烏帽子親)である。烏帽子親が自分の実名の一字を新成人に与えること(偏諱を賜うという)があったが、それは義時にも当てはまると思われる。義時の「時」は、通字といって、一族の名に共通で使われた文字だ(時政・宗時・泰時・時宗など)。「義」が烏帽子親から貰った字ではないかと推測されている。当時の東国の武士団で「義」を通字としていたのは、相模国の大豪族・三浦氏であった。義時は、三浦義明かその子の義澄(よしずみ)から「義」の字をもらったとされている。

 

 北条氏は伊豆の中小豪族。近隣の大豪族と結びつきを持つことで、いざという時の頼みにしようとしたのだろう。そう考えた時、時政が伊東祐親の娘を嫁に貰ったのも合点がゆく。伊東氏と縁戚となったのも、寄らば大樹の陰という視点もあったろうし、伊東氏の勢力に呑み込まれないための方策だったかもしれない。しかし、そのことが、北条義時や政子という後に歴史を動かすことになる人物を生んだのであった。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」より)

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