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渋沢栄一は明治当時「福沢諭吉」をどのように見ていたのか?

渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち⑩


日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた。そんな渋沢が見た福沢諭吉とは、どのような人物だったのだろうか?


 

自由と平等を推し進めた教育者

大阪府大阪市に建つ適塾(てきじゅく)。適々塾とも適々斎塾ともいう。高松凌雲(たかまつりょううん)や大村益次郎、橋本左内など、多くの人材を輩出した。福沢は最年少で塾長を務めている。国の重要文化財。

 

 福沢諭吉は1834(天保5)年、豊前(ぶぜん)国中津藩士の福沢百助(ひゃくすけ)の次男として大坂で生まれた。1836(天保7)年に父が急逝したことから、一家は中津に移住。なかなか中津の生活に馴染むことができず、さらに下級藩士で母子家庭としての暮らしに苦労を重ねた。後年、福沢はこの時のことを振り返り、「門閥(もんばつ)制度は親の敵」(『福翁自伝』)と語っている。

 

 若くして漢学を習い始め、1854(安政元)年には蘭学を学ぶために長崎に遊学。翌年には大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に学び、やがて塾長となった。1858(安政5)年には藩命に従って江戸に出て、築地に蘭学塾を開いている。

 

 翌1859(安政6)年、横浜を見学した折に、もはや蘭学は役に立たず、これからは英語の時代と見抜くと、独学で英語を学ぶ一方、1860(万延元)年に行われた幕府の遣米使節団に志願して渡米。日本人として初めてウェブスター辞書を持ち帰り、帰国後は幕府で外交文書の翻訳などに携わった。洋行で得た知見をまとめた『西洋事情』などを出版したことで、海外事情に通じた第一人者として名を馳せるようになっていく。

 

 1868(慶応4)年に王政復古の大号令が行われた後、新政府への出仕を請われたものの、固辞。築地に開いていた蘭学塾を慶應義塾と改め、自由と平等を重んじた教育を推し進めた。

 

 ちょうどこの頃に出版した『学問のすゝめ』が大ヒット。「天は人の上に人を造らず」で始まる本書は、当時、まだ人々の意識にこびりついていた封建制度からの脱却を説いた。すなわち、人はみな平等であることを広く知らしめ、国民の意識改革に寄与したのである。

 

1882(明治15)年には日刊紙『時事新報』を創刊。「不偏不党」「官民調和」を掲げ、社説の執筆などを手掛けた。

 

 アジア各国の独立を訴えるなか、まもなく勃発した日清戦争は「文野明暗の戦」と支持。その後も著述活動を続けたが、1898(明治31)年に脳溢血を発症。一時は回復したものの、再発し、1901(明治34)年に死去した。

 

福沢先生は口で説き、私は自ら実践した

 

 渋沢と福沢には多くの共通項がある。

 

 一つは、もともとの身分がそれほど高くはなかったこと。渋沢は農民で、福沢は下級武士。そのため、若い頃はともに苦労人であった。

 

 もう一つは、明治維新の前に海を渡り、最先端の学問や制度を学んでいること。渋沢は一時、攘夷を叫ぶ過激な思想を持ってはいたが、海外の文明や文化を目の当たりにして、すぐさま転身を図っている。一方の福沢も、もっぱら蘭学を学んでいたところ、将来は英語が必要になると見抜くと、すぐさま切り替え、渡米までして積極的に海外の学問を取り入れた。

 

 最後に、国を想う気持ちが誰よりも強かったこと。二人は明治新政府とは一定の距離を置いたが、日本の発展には貿易立国となることが最も重要だと考えていたのは共通している。

 

 福沢とは違い、渋沢は一時期、明治新政府に出仕している。二人の初対面はこの時だ。渋沢は1869(明治2)年に新政府入りを果たすと、改正掛(かいせいがかり)の設立をはじめとした、さまざまな改革に乗り出している。渋沢が取り組もうとした事業は多岐にわたり、実施すべき改革をまとめた意見書は数百枚にもおよんだ。渋沢に大きく期待を寄せていた上司である大隈重信や伊藤博文も、さすがに辟易として受け取りを拒否している。

 

 そこで、渋沢は意見書を簡潔にまとめるために、海外通の福沢に意見を求めた。初対面の時のことを、渋沢はこう振り返っている。

 

「この初対面の時から、先生は他の人々と大分異る特色を種々発揮されたことであつた。余は主として度量衡改正に就て先生の意見を求めに参つたのであるが、先生は初対面の余に向つて御自作の『世界国ずくし』や『西洋事情』を取り出し、種々に教示さるる所があつた。余は兎に角、一風変つた人だと云ふことを初対面の時から感じたのである」(『渋沢栄一伝記資料』)

 

 政府から退き、実業の世界に身を置いた渋沢は、意外なところで福沢との接点が築かれている。福沢の設立した慶應義塾の出身者と仕事で会うようになったのだ。慶應義塾の面々から耳にする福沢の実像に、渋沢は感嘆している。

 

「福沢先生と云ふ人は、独立自尊を唱へる人だとか、商工業を重んずる人だとか云ふことを聞き知り、先生は実に生きた学者であつて、旧来の空漠な意見を持つ方でないことを察した。殊に、先生が極力商工業・実業界の活動を主張せられ、実業界の人は、政治界の人と区劃すべきでない、少くも両者は同じ列にせねばならぬと言はれたのは全く先生のすぐれたお考へに依るものであつた。この点に於て、余は殊に先生と主義を同じうするものである」(『渋沢栄一伝記資料』)

 

 一方、福沢が渋沢を絶賛する記事を書いたのは、1893(明治26)年6月のこと。『時事新報』の記事には、政府を辞して実業界で華々しい活躍を続ける渋沢について、次のように書いている。

 

「今、偉くなっている連中のなかには、当時、渋沢氏の下にいた者が大勢いる。当時は官尊民卑の風潮がきわめて強かったが、成功するかどうかわからない実業の世界へ飛び込み、初志を貫き通して今日の地位を手に入れ、今や実業界の渋沢栄一の存在を知らない者はいない。大変な栄誉である。(中略)世上、幾多の渋沢氏あるべし」

 

 渋沢は、福沢との交流についても触れている。

 

「折々の会合等ではちよいちよい先生にお会ひしたのである。その間余の方から二・三回先生の邸をお訪ねしたことも覚えて居る。亦た或る時は大隈侯のお邸で共に午餐の饗に与かり、相寄つて種々なる懇談を致したこともある」(『渋沢栄一伝記資料』)

 

 交流するなかで、渋沢は福沢について、こう評価している。

 

「福沢先生の特徴を評すれば、第一はその見識の高かつたことである。何物にも屈せず怖れざる先生一流の特色はこゝに最もよく現はれて居る、次ぎには何事につけても、眼の付けどこの早かつたことである、先生は夙に洋学の学ぶべき旨を伝へられ、西洋風の風俗習慣を鼓吹されたのも皆そこから来て居る、それに比べると余の如きは、甚だ時候後れであつたと言はざるを得ぬ。

 亦、先生に就て、特に推称すべきは、神聖なる国の発達は如何しても富の力に待つ外ないと主唱された一事である。これは当時の人としては真に驚くべき卓見であつて、学者側に尚ほこの言を為された人あるは推服に値ひする。而して、之は先生と余の偶然一致した意見であつて、先生はそれを口に説き、余は自ら行つたのである」(『渋沢栄一伝記資料』)

 

 近代日本の発展に大きく貢献した二人は、その主義や信条においても、極めて近しいものを持っていたのである。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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