渋沢栄一が尽力した慈善事業に廃止の声を挙げたのは自由民権運動家だった
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
11月21日(日)放送の第36回『青天を衝け』では、渋沢栄一(吉沢亮)が推進し、守り抜こうとする合本主義の前に、養育院の実情や三菱の存在が立ちはだかる。理想と現実の狭間に立たされ苦悩するなか、栄一は最愛の妻を失うこととなった。
三菱との全面戦争を前に愛妻を失う

東京都台東区にある旧岩崎邸庭園。もともとは弥太郎の本邸があった場所で、三代・久弥が和洋の建築様式を融合させて造らせた。設計は、ニコライ堂や鹿鳴館などを手掛けたことで知られるジョサイア・コンドル。
海運業をほぼ独占して勢いに乗る三菱に対し、栄一らは東京風帆船会社を立ち上げて対抗を試みる。ところが、岩崎弥太郎(中村芝翫)の妨害工作のためにあらぬ風評を流され、大隈重信(大倉孝二)にも敵視されると、設立は暗礁に乗り上げてしまう。
さらに東京府会では、困窮した人々を救う養育院の事業縮小が検討されていた。税収が逼迫しているためだ。栄一は「国が一番守らねばならぬのは人だ」と反論したが、聞き入れられることはなかった。栄一の掲げる理想は、現実を乗り越えられずにいた。
その頃、新聞に掲載されて世間を騒がせていたのは、北海道の官営工場の不当な払い下げだった。新聞は、払い下げに反対する大隈重信を持ち上げ、政権には痛烈な批判をしていたのである。
しかし、重信が払い下げに反対していたのは、庇護している弥太郎に便宜を図るためであった。重信の目論見を見抜いていた伊藤博文(山崎育三郎)は、目障りになってきた重信の追放を画策。重信に辞表の提出を求め、強引に下野させた。佐賀出身の重信が政府から排除されたことで、政権は、薩摩・長州出身者で固められた新たな体制となった。
そんな折、栄一の妻・千代(橋本愛)が流行病のコレラに感染し、倒れる。栄一は、東京風帆船会社に北海道運輸会社、越中風帆船会社を合同させて誕生させた、共同運輸会社の発起人大会にも欠席し、千代のもとを離れようとしなかった。
栄一や子どもたちの願いもむなしく、千代は永眠。感染症対策のため、遺体はすぐさま荼毘に付された。憔悴し切った栄一に、声をかけられる者はいなかった。
明治14年の政変のきっかけを作ったのは大隈重信本人だった
若き頃の岩崎弥太郎は「将来、何になるつもりか」との問いに、こう答えたという。
「治世の能吏、乱世の姦雄」
当時、三菱の躍進が目覚ましかったのは、大隈重信という強力な後ろ盾があったからだけではない。たとえば、新参の海運業者が現れると、航路に船を出してまとわりつき、その業者よりもさらに安い運賃を提示して客を分捕るという、かなり強引なやり方で勢力を拡大してきたのである。
さらに海上輸送業をほぼ独占したのをいいことに、運賃を釣り上げたり、あるいは今は立て込んでいるから輸送ができないと断ったりなど、まさにやりたい放題だったという。
こうしたやり口が、いつまでも世間に見過ごされるわけもない。しかし、三菱が会計収支の公表をしていないと批判にさらされた岩崎は、「私ひとりの資力で創設・運営してきたのだから、三菱は私の体格にして私は即ち三菱の精神である」と、まるで意に介さなかった。まさに姦雄というにふさわしい口上である。
三菱に対抗して立ち上げた、渋沢らの東京風帆船会社に対するやり口もまた、力ずくといっていいものであった。岩崎は、「第一銀行の渋沢が最近船舶業に手を伸し、三井物産の益田と結託して、東京風帆船会社を経営しようとして居るのは、彼が頃来米相場に手を出し、又、洋銀の売買に失敗して第一銀行に七十万円の大穴をあけたのを塡めようとして焦つてゐるのである」(『財界太平記』)といった噂を流したのである。さらに、第一国立銀行に預金している華族たちに手を回して、一度に預金を引き出させようともしている。挙げ句の果てには、「此頃第一国立銀行破産に瀕し、渋沢之を患ひて自殺を企てたりなどいふ流言」(『渋沢栄一伝記資料』)も岩崎の妨害工作のひとつだった。
無論、根も葉もないものであったが、影響は小さいとはいえず、いったんは東京風帆船会社の設立が消えかかった。再び息を吹き返したのは、明治14年の政変がきっかけだった。
明治14年の政変とは、開拓使官有物払下げをきっかけに、国会の開設時期などをめぐって対立していた大隈重信が政権から追放された政変。政府の実権を握る伊藤は、新聞に報じられた北海道の官営工場払い下げの件は大隈が新聞社にリークしたものと見ており、政変に伴い、大隈のみならず、前島密(三浦誠己)をはじめとした「大隈派」も一掃している。
大隈は下野した後に政党を立ち上げているが、その影に三菱の金が動いているとの噂も、政府が大隈と三菱への態度を硬化させる要因になった。そこで、渋沢らの東京風帆船会社に肩入れし、共同運輸会社に出資するに至ったのである。
さらにもうひとつ、政府には品川弥二郎という長州出身の政治家がいた。彼はかねてから三菱の海運業独占の状態を憂慮しており、純粋な競争原理を働かせようとしていたのである。こうした背景が、政府による共同運輸会社の優遇につながったといえる。
共同運輸会社には追い風が吹いたが、この頃の渋沢を悩ませていたのは、養育院の存続であった。東京府会で廃止の議論が持ち上がったのである。
ドラマにあったように、創立当初の養育院は規模も小さく、かかる経費もごくわずかだった。ところが、1874(明治7)年頃から収容する生活困窮者も増えたことから、経費も上昇。建物も1881(明治14)年には手狭になった上野から外神田和泉町に移設されている(『青淵回顧録(抄)』)。
養育院廃止の声を挙げたのは、沼間守一(オレノグラフィティ)らで、要旨は「かくのごとき慈善事業は自然に懶怠の民を作るようになるから、むしろ害あって益なきものである。かかる事業に多額の経費を投ずる事ははなはだよろしくない、すべからく廃止して、その経費を他の有用なる方面に利用すべきである」というもの(『青淵回顧録(抄)』)。
この時、廃止か存続かを判断するために調査委員が設けられている。渋沢は調査委員に養育院を見てもらうなどして、廃止の撤回に尽力。調査委員は、養育院に収容されている者たちの惨状に同情し、何とかこの年(明治15年)の廃止は免れたという。
ちなみに、養育院廃止の声を挙げた一人である沼間は、前回の放送で、グラント将軍の歓待事業を代表する渋沢への抗議演説を行っていた民権家。1879(明治12)年より東京府会議員となっており、翌年には府会の副議長に就任している。