渋沢栄一邸でのグラント前大統領歓迎会に参加していた伝説の柔道家とは?
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
11月14日(日)放送の第35回『青天を衝け』では、渋沢栄一(吉沢亮)らがアメリカ前大統領グラントを歓待する様子が描かれた。そのなかで、女性の社会進出や国民の政治参加など、日本で進む近代化の波も浮き彫りとなった。
日本初の国賓を迎える接待役を務める

東京都港区にある増上寺の「グラント松」。グラントが参拝した記念に植えたもの。グラントは上野公園(東京都台東区)や長崎公園(長崎県長崎市)でも記念植樹を行っている。
南北戦争北軍の将軍であり、第18代アメリカ大統領だったグラント(フレデリック・ベノリエル)が来日した。日本を世界に並び立つ一等国にするため、準備を万端に整えた栄一。しかし、出迎える東京府民の中には、栄一らの進める一連の関連行事を快く思わない者も少なからずいた。
そんななか、グラントを迎える、華やかな夜会が催された。栄一の妻・千代(橋本愛)や大隈重信(大倉孝二)の妻・綾子(朝倉あき)らも参列し、宴に華を添えた。井上馨(福士誠治)や重信らは、不慣れな外国人相手に立派に役割を務める自分の妻たちを誇らしげに見つめていた。
2か月にわたる旅程のなかでグラント一行は、接待委員の代表を務める栄一宅への訪問を希望。突然の申し出に慌てる栄一だったが、千代は動じるどころか、子どもや書生たちを巻き込んで、即座に動き出す。建設途中だった飛鳥山の新居の完成も急がせた。千代の数々の機転が功を奏し、グラント一行の歓待は成功。栄一は千代に「ほれ直した」と、礼の気持ちをまっすぐに伝えたのだった。
グラントの帰国後、国民の政治参加を求める民権家たちの政府批判が激化。さらに、岩崎弥太郎(中村芝翫)率いる三菱の事業拡大は、栄一の進める合本主義を危うくしていた。
感染症対策の不満から民権運動が激化する
アメリカの前大統領ユリシーズ・グラントが来日したのは、1879(明治12)年6月21日のこと。一行を乗せた軍艦リッチモンドは、まず長崎に到着。26日には長崎を出港し、7月3日に横浜に入港し、一行は東京で出迎えられた。東京接待委員の総代として、渋沢はこの日、新橋駅でグラントらを迎えている。翌4日にグラントは明治天皇に謁見しているが、これは同日がアメリカの独立記念日であることを意識して、日本政府が調整したものだ。
8月1日に、横浜に居留していた外国人が主催した宴会で、渋沢とグラントは顔を合わせている。8月3日に接待委員の会議が行われ、西洋では個人宅で客人をもてなすことこそが親愛の証になる、という話が急に持ち上がった。渋沢の邸宅が候補に挙がったのは、すでに前月の7月中旬に落成しており、備わる部屋も相応に広い、ということが理由だったようだ。そこで急遽、8月5日に飛鳥山の渋沢の新居にて、歓迎会が催されることになったのである。つまり、グラントから申し入れられたというよりは、日本側からの提案だったようだ。
その準備は実に慌ただしいものだった。馬車の御者の休憩所を設置したり、馬車道を造ったり、ドラマにもあったように外務省から西洋家具を借用したりと、新築したばかりの邸宅は上へ下への大騒ぎだったようである。ドラマでは渋沢と大隈がまるで不仲であるかのように描かれているが、グラント歓待の際には大隈から盆栽を借りて新居の卓上に飾っている。料理を提供した上野の西洋料理屋とは、現在も上野にある精養軒のことだ。
ドラマでは渋沢邸での一連の出し物のうち、相撲が好評だったと描かれているが、実際は、グラントは柔術にも強い関心をもったようである。この時、柔術の演舞を披露したのは、後に「柔道の父」と呼ばれることになる、若き日の嘉納治五郎であった。
グラントは「柔術は力と技術のいづれを重しとするものであるかとたづね」(『渋沢栄一伝記資料』)、いずれが大切であるのかを証明するため、いかにも強そうな植木職人と柔術の使い手とを対戦させたという。この趣向は大変盛り上がり、「此余興は大層御気に叶ひ興に入られた」(『渋沢栄一伝記資料』)ようで、大成功に終わった。
このグラント来日には裏話がある。
グラントは、岩倉視察団が渡米(1871〜1873年)した際の大統領だったことはドラマでも語られている。事実、グラントは1869年から1877年にかけて大統領を務めたが、政権運営中は汚職やスキャンダルにまみれた、いわばいわくつきの大統領だった。グラント自身の不正ではなかったが、問題のある部下に寛容な姿勢をとり続けたため、国民から反発を受けたのだ。二期目の終了とともに政界を去ったものの世間の非難は止まず、実はこうしたわずらわしさから逃れるための世界旅行だったのだ。
スキャンダルで追い立てられるように旅に出たとはいえ、グラントは南北戦争の英雄。訪れた各国では、いずれも歓迎されたという。
世界周遊の旅の最後を飾ったのが日本で、グラントは長崎、横浜、東京、日光、箱根などに滞在した。明治天皇にも何度か謁見していることから、国賓として政府がいかに丁重にもてなしたかがうかがいしれるだろう。
一方、当時の国内は、国民の声を政治に反映させようという民権運動が盛んだった。その背景には、当時、流行していた感染症であるコレラを抑え込むために、政府が推し進めていた感染症対策も少なからず関係している。コレラはグラント来日の直前である1879(明治12)年6月頃から西日本で流行し、7月には東日本でも蔓延の様相を呈していた。
文明国としての体裁を保つために、グラント来日を控えた政府は、検疫、感染者の隔離、専用病院の設置など、近代的な感染症対策を行ったが、国民からは不満の声があがった。外出禁止を中心とする感染防止のための対策は今日だと理解されやすいが、当時はまだ正体不明の病気だったため、コレラよりもパニックの伝染の方が早かったようである。
特に、感染者を病院で隔離することは一層恐怖をあおることになったらしい。治療とは名ばかりで、実は入院患者は殺されて内臓を取り出され、グラントに高く売りつける密約が交わされている、などという噂が流れたほどだった。こうした政府に対する不信が、民権運動と密接につながったようだ。
ところで、ドラマでは、渋沢とともに下野したはずの井上馨が伊藤博文(山崎育三郎)とともにちょくちょく顔を出している。実は、大久保利通暗殺後、政府の実権を握った伊藤の説得もあって、井上は1875(明治8)年頃に政府に復帰していた。そのため、ドラマで描かれたこの時期は、大隈や伊藤らと行動を共にしているのである。