渋沢栄一のもう一つの顔・福祉活動のため創立した中央慈善協会(全国社会福祉協議会)
渋沢栄一の足跡
「福祉」という概念がなかった明治から渋沢栄一は福祉にさまざまな形で寄与した。現在も日本の福祉に貢献している「社会福祉法人全国社会福祉協議会」も渋沢が作り上げた団体のひとつであった。
経済の発展のみではなく、社会活動の発展をも
志した渋沢栄一がつくった福祉団体

渋沢栄一は福祉にさまざまな形で寄与。「東京養育院」という施設の院長を務め、今ではホームレスと呼ばれる人や高齢者、病者など多様な人を救済。現在、養育院の伝統を継承した機関の建つ場所に銅像がある。
渋沢栄一は、日本における資本主義の発展に大いに貢献した。一方で、慈善事業に携わっていたことも、よく知られた話である。中央慈善協会(現:社会福祉法人全国社会福祉協議会)もその一つである。
明治元年(1868)の明治維新後、新政府は「富国強兵」「殖産興業」を強力に推進し、世界とりわけ欧米の列強に比肩しようとした。
しかし、その政策は社会にひずみをもたらした。農村人口の流出や工場労働者の増大により、都市には貧しい下層社会が形成されたのである。
明治7年、貧しい人々を救うべく、「恤救規則」がわが国初の全国統一の救済制度として制定された。しかし、「恤救規則」の対象は限定的なものにすぎず、充実した救貧制度は昭和7年(1932)1月1日に制定された「救護法」を待たねばならなかった。
明治36年、全国慈善大会が大阪で開催され、全国的連絡組織「日本慈善同盟会」の設立が決定された。これがのちの「中央慈善協会」である。
明治41年10月7日、中央慈善協会の発会式が東京麹町の国学院講堂で催された。初代会長には渋沢栄一が就任し、発会式では協会設立趣意書が発表された。
その後、第一次世界大戦、関東大震災、金融恐慌などに見舞われ、日本は生活困窮者で溢れかえり、そうした人々の救済が政府の喫緊の課題となった。
政府は予算が足りず、十分な対策ができなかったため、栄一は全国の社会事業関係者に協力を呼び掛けた。その結果、制定されたのが、先述した「救護法」だ。
運動を展開していたとき、すでに栄一は病気だったが、無理が祟って、法が施行される2ヵ月前に病死したのである。
全国社会福祉協議会
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