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井上馨は渋沢栄一を後任に指名していた!

史実から振り返る今週の『青天を衝け』


大河ドラマ『青天を衝け』1024日(日)放送の第32回では、ついに渋沢栄一(吉沢亮)が政府を飛び出し、民間での活動を開始した。栄一が合本主義を世に広めようとするなか、豪腕で知られる三菱の岩崎弥太郎(中村芝翫)の台頭や、不平士族の蜂起などの波乱も待ち受けていた。


 

実業界での第一歩を踏み出す

東京都中央区日本橋兜町にある銀行発祥の地碑。三井組が新築した洋風五層楼のあった場所で、第一国立銀行のために渋沢が強引に明け渡させた。三井組は建設費5万8000円の建物を12万8000円で売り払うことで、泣く泣く了承したという

 栄一の合本主義に基づいた第一国立銀行がいよいよスタートした。栄一は総監役に就任。三井組と小野組とのいさかいが絶えず頭を悩ませていたが、そんな栄一を訪ねた五代友厚(ごだいともあつ/ディーン・フジオカ)から、「政府は厄介な獣の集まりじゃったが、商いの方はまさに化け物。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)しておる」と忠告される。

 

 その頃、井上馨(福士誠治)と栄一の抜けた大蔵省に食い込もうと、三菱の岩崎弥太郎が暗躍を始めていた。

 

 ある日、渋沢喜作(高良健吾)がイタリアから戻ってくる。帰国早々、すでに栄一が大蔵省を辞めていたことを強く非難したが、喜作は赴任先で生糸に商機を見いだしたという。喜作は栄一同様、政府を辞して生糸業を始めると口にした。

 

 体調を崩していた母のゑい(和久井映見)が亡くなるという悲しみのなか、栄一の元にひとつの知らせが舞い込んでくる。第一国立銀行に参画する小野組の経営危機が知らされたのだ。小野組の危機はすなわち、第一国立銀行の破綻に通じる。

 

 その影には、退官した栄一や井上の民間での活動を疎ましく感じている大久保利通(石丸幹二)や大隈重信(大倉孝二)、そして三菱の岩崎の思惑が蠢(うごめ)いていた。

 

井上は退官前に一か月間サボタージュしていた

 

 1872(明治5)年11月頃、台湾征討が持ち上がった。きっかけは、同年10月に宮古島の年貢の輸送船が遭難し、島民が台湾に漂着したこと。島民の大半が殺害されたことで、政府内には台湾に出兵する声が高まっていたのである。

 

 その是非を問う会議に、渋沢が参列している。本来であれば上司である井上の役割だが、「この時、井上は母の喪に丁って出席が出来ぬということで」(『雨夜譚』)、渋沢が代理で出席したのだ。渋沢は維新以降、まだ内政がまとまっておらず、今、外征に出るのは危険である、などと述べて反対。台湾征討は見送られた。

 

 その後、司法省と文部省が予算の増額を大蔵省に求めてきた。井上も渋沢も、財政に対する基本理念は「歳入に見合った歳出」であったことから、放漫経営を地で行く両省の訴えは到底受け入れられるものではない。ところが、政府で強権をふるう大久保が強引に押し通す、といったことが続き、怒り心頭に発した井上は、一か月にわたって出仕を拒否した。

 

 三条実美(さんじょうさねとみ/金井勇太)は井上の出仕を促すよう、渋沢の邸宅を再三訪れたという(『雨夜譚』)。かくして、年明けに井上は出仕したが、すぐさま司法省との争いが再燃。期待していた、かつての上司である大隈の助力もなく、事態が好転することはなかった。そこで、ついに井上は辞意を決意したのである。

 

 この時、井上は渋沢に後事を託す、と伝えている。ところが、渋沢自身もかねてより井上に辞意を伝えていたことから、これを幸いとして、ともに辞表を提出するに至った(『雨夜譚』『世外井上公伝』)。

 

 ドラマの中で井上・渋沢の両名による告発状のようなものが新聞に掲載されていたが、これはもともと渋沢が辞表提出の翌日に書き上げたものだったらしい。それを井上が読み、まったくの同意見だということで、意見書として政府に奏上した。その全文を「曙新聞」が掲載した、というのが事の顛末のようだ(『雨夜譚』)。

 

 国内の他の新聞に加えて、外国の新聞にも記事が掲載されたことから、政府は大慌てとなった。このことにより、井上や渋沢が逮捕されることはなかったが、その代わりに大蔵省の職員が責任を負わされて拘留されたという(『世外井上公伝』)。

 

 政府の内情を漏洩したと二人に激怒したのが、司法卿(しほうきょう)の江藤新平(増田修一朗)であることはドラマにもあった通りで、江藤は二人に対して謝罪を要求している。が、二人ともまったく取り合わなかったので、裁判所を通して罰金刑に処する司法通達を送ったのである。二人に科された罰金の額は、三円といわれている(『世外井上公伝』)。

 

 さらに、大隈も忠告の手紙を出したようだが、渋沢は返事も出さなかった。ここでようやく、政府は二人の翻意を促すことは不可能と断じ、「依頼免出仕(ねがいによりしゅっしをめんず)」の辞令が下ったのだった。1873(明治6)年523日のことだった(『雨夜譚』)。

 

 さて、江藤を激怒させた記事の一部は次のようなものだった。

 

 国の歳入の総額は4000万円。本年の経費総計は5000万円におよぶ。すでに1000万円の不足が生じているにもかかわらず、政府の負債は14000万円にも達し、償却の手立てさえ立っていない。

 

 つまり、政府は負債を抱えているのにずさんな経営を続けているという告発状だったのだ。

 

 ドラマでは、こうした渋沢の動向に苦々しい表情を見せていた大隈だったが、ある程度は理解を示していたのではないか、と考えられる。それは、渋沢が銀行で働くことについて事前に大隈に相談していたからだ。さらに渋沢は、第一国立銀行に入行する際、三野村利左衛門(イッセー尾形)とともに大蔵省に赴き、大隈に挨拶をしている。官と民で道を違えても、大隈と渋沢は、決して仲違いをしていたわけではなかったようだ。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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