雄弁家・大隈重信と伊藤博文を呆れさせた渋沢栄一の改革案とは?
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
10月3日(日)放送の第29回では、新政府の官僚となった渋沢栄一(吉沢亮)が、膨大な仕事量や旧幕臣という立場に対する偏見などをものともせず、新しい国づくりに奮闘する姿が描かれた。
改正掛の改革事業がスタートする

東京都中央区にある日本郵便発祥の地。官営による郵便事業は1871(明治4)年に東京と大阪間で開始された。現在は日本橋郵便局となっており、「郵便の父」前島密の胸像が建つ。
自らが考案した「改正掛(かいせいがかり)」が設置され、多忙を極める栄一。妻の千代(橋本愛)や愛娘うた(山﨑千聖)を静岡から東京に呼び寄せ、生活の基盤も整ってきた。
改正掛の手掛ける事業は多岐にわたる。租税制度の改正、度量衡(どりょうこう)の基準制定、郵便制度の設立、駅逓(えきてい)制の改正、貨幣、鉄道……。栄一は、旧幕臣の杉浦譲(すぎうらゆずる/志尊淳)や前島密(まえじまひそか/三浦誠己)、赤松則良(あかまつのりよし/上村海成)といった有能な人材を静岡から招聘し、一刻も早い改革を期していた。
一方、栄一ら旧幕臣が新政府内で改革に取り組むことを快く思わない人物もいた。戊辰戦争を新政府側として戦った、玉乃世履(たまのよふみ/高木渉)をはじめとした元藩士らは、反発心を隠さない。薩摩藩の大久保利通(石丸幹二)も、栄一の推し進める改正掛の活動を苦々しく見ていた。
そんななか、新政府で唯一、養蚕(ようさん)に対する知識のあった栄一は、生糸事業を全面的に任されることになった。栄一は、近代的な製糸工場の設立に尾高惇忠(おだかじゅんちゅう/田辺誠一)を抜擢しようと考えたが、当の惇忠は、かつて平九郎を惨殺した新政府に仕えることなどできない、と誘いを断る。
しかし、栄一の仕事に対する真摯な姿勢、新たな国づくりへの情熱が、彼らの心を動かした。玉乃は栄一に謝罪し、惇忠は考えを改め、栄一の元へ馳せ参じた。
改正掛が次々と旧来の制度を改めていく一方、新政府のまとまりのなさにいらだつ岩倉具視(山内圭哉)は、大久保に不満をぶちまけた。大久保も、一向に進まない中央集権化に焦りを感じ始めていた。
尾高惇忠は渋沢の事業を引き継いでいた
今日の日本に通じる、さまざまな制度の基礎づくりを手掛けた改正掛。その設立は、仕官するための条件として渋沢が挙げたものといわれている。
渋沢はさっそく、改正すべき制度を「改革意見書」としてまとめた。その内容は、「地価、貨幣、度衡量の改正から、租税の物品納を廃して金銭納とすることなど」(『渋沢栄一伝記資料』より。「度衡量」は正しくは「度量衡」だが、原文ママ)と幅広く、思いの丈を詰め込んだもので、大隈重信(大倉孝二)と伊藤博文(山崎育三郎)に提出している。その枚数は、なんと数百枚におよんだ。これにはさすがの大隈、伊藤も辟易として、「長すぎる」と突っ返したらしい。
そこで渋沢は、誰かに諸制度について講釈をしてもらい、それをうまくまとめて簡素化する、という手法を考えついた。白羽の矢を立てたのが、当時『西洋事情』を著していた海外通の福沢諭吉だった。ドラマのラストで渋沢が「福沢殿の度量衡の講釈はちっとも分かんねぇな」と語っていたのはそのことで、後年、渋沢は「今考えてみると、内科の医者に外科の軟膏をもらいにいったようなものだ」と述懐していることから、あまり要領を得ない面会だったようだ。いずれにせよ、これが福沢との初対面であったと、後に振り返っている。
また、改正掛の業務開始直後と思われる段階から、すでに杉浦や前島、赤松らが会議に参加しているが、実際の彼らの登用はもう少し後のことで、1870(明治3)年の春頃である。改正掛の設立が前年末なので、わずか数か月で、より有用な人材の必要性を渋沢が感じ取った、ということになる。それだけ改正掛の事業のスピードは早く、幅が広かったことの証左といえる。
さて、かつて渋沢の学問の師だった惇忠は、ドラマでは描かれていないが、千代やうたが血洗島(ちあらいじま)から静岡に引っ越す際に付き添った人物である。渋沢が妻子とともに惇忠を呼び寄せたのだ。惇忠ほどの人物を埋もれさせておくのはもったいない、と考えたのだろう。渋沢の斡旋により、惇忠は静岡藩に採用されている。その後、渋沢が東京へと旅立った後もしばらく静岡に残り、渋沢が立ち上げた「商法会所」で働いている。
そんな惇忠も当初、渋沢の新政府入りには批判的だったと考えられる。政府の内外から、少なからず反発があったのは事実で、大隈が渋沢に聞かせた言葉として、次のようなものが残されている。
「当時は幕臣といへば、世人が皆嫌疑の眼を以て見たものである。仮にも幕府に仕へた者であると云ふと、或は二心を抱いて居りはせぬか、間諜ではあるまいか等と自然人から危まれたものである」(『渋沢栄一伝記資料』)
武士の観念でいえば、二君に仕えるのははしたないこと。幕府から政府に鞍替えしたように見える幕臣たちは、当時、政府内で白い目で見られていたのである。それはおそらく、政府に出仕せず、遠くから中央の成り行きを見守っていた旧幕臣たちも同じだったことは想像に難くない。政府に仕官した渋沢ら旧幕臣は、新政府の人間にも、旧幕府の人間にも、冷遇されたり、危険視されたりしていた。
もっとも、大久保は違った意味で渋沢のような存在を煙たがっていたようだ。
ドラマの中で大久保は「中央に権力を保つには一刻も早う、政府と諸省が手足んごとく、一身のごとく一体となるこっが肝要じゃ」と大隈に激高しているシーンがある。これは当時、維新三傑の一人である木戸孝允(きどたかよし)とその一派を、大久保が徐々に政府内から追い出していたことと無関係ではない。この頃、大久保と木戸は意見を違えることがしばしばあり、どうやらそれぞれの考えを調整する時間も惜しいと大久保は考え始めた。そこで、要職を自分の配下の者で固め、政府内を大久保一派で掌握しようとしていたようだ。
どちらかというと大久保派と見られていた長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が暗殺されたのもこの頃。軍事制度を取りまとめていた大村が亡くなったのと同時に、大久保はすかさず薩摩出身の黒田清隆や川村純義(かわむらすみよし)を後任に据え、着々と足下を固めていた時期でもあった。
つまり、自身に意見する渋沢のような存在は、大久保が最も排除したい人物だったといえる。渋沢と大久保。二人の対立は、まもなく表面化することとなる。