慶喜は天璋院ではなく静寛院宮に拝謁していた!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
8月22日(日)放送の第25回は、日本に帰国した渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)が、不在の間に起こった本国の顛末を耳にする。洋装から再び着物に戻った篤太夫は、旧幕府の絶望的な状況と身内を襲った悲劇に、ただただ身を震わせるのだった。
幕府の断末魔の声を聞く

東京都台東区にある寛永寺。幕府の安泰を祈願するために江戸城から見て鬼門(東北)の位置に建立された。慶喜が謹慎した「葵の間」は現在も特別参拝の形で公開される。
1868(明治元)年12月初旬、篤太夫は横浜港に到着。帰国の手続きをしなければならない篤太夫らよりも一足先に、徳川昭武(=民部公子、板垣李光人)は品川へと向かっていった。
横浜に宿を取った篤太夫は、出迎えに訪れた杉浦愛蔵(志尊淳)らに慶喜が大政奉還した後の話を聞くこととなる。
新政府軍と戦うために立ち上がったはずの慶喜が兵を置き去りにして大坂から江戸に戻ったこと。徹底抗戦を唱える家臣の声も聞かず、抗戦派の小栗忠順(おぐりただまさ/武田真治)を罷免した上で、慶喜が寛永寺で謹慎に入ったこと。江戸城が新政府軍に明け渡されたこと。官軍総督府を名乗る者たちに小栗が斬首されたこと。渋沢成一郎(=喜作、高良健吾)らが新政府軍に抵抗し、箱館で戦を続けていること。そして、渋沢平九郎(へいくろう/岡田健史)が壮絶な戦死を遂げた上、さらし首にされたこと。
故国のあまりの変わりように、篤太夫は怒りと悲しみに身が震えるのだった。
一方、血洗島(ちあらいじま)の渋沢家には、篤太夫帰国の知らせが届いていた。
妻の千代(橋本愛)や母のゑい(和久井映見)、父の市郎右衛門(小林薫)は一様に喜ぶが、一人、妹のてい(藤野涼子)だけは浮かない表情を浮かべる。恋慕の情を抱いていた平九郎が非業の最期を遂げたのを知っていたからだ。
尾高家にも、篤太夫帰国の報に暗い表情を浮かべる者がいた。長七郎(満島真之介)だ。攘夷を果たせぬまま投獄され、幕末の動乱に何の働きもせずに生き長らえた長七郎は言う。「俺たちは何のために生まれてきたんだんべなぁ……」
そんな家族らの待つ血洗島に、篤太夫は向かっていた。
平九郎は辞世の句を残していた
渋沢が帰国した頃、日本はすっかり様変わりしていた。
江戸は東京になり、年号は慶応から明治に改元。全国を統治する役割を担っていたのは、すでに幕府ではなく、薩摩と長州を中心とした新政府だった。
戦う意思のない慶喜に成り代わって新政府軍と戦う姿勢を見せたのが成一郎だった。ドラマでは成一郎が彰義隊(しょうぎたい)の頭取となった場面が描かれるが、実は上野戦争が勃発する頃には副頭取の天野八郎と不和になり、成一郎は彰義隊を脱退している。その後に結成された振武軍(しんぶぐん)は、上野戦争で敗北した彰義隊の残党を吸収し、新たな彰義隊となって箱館戦争へ投じていくことになる。
一方、戦場から逃れ、あくまで朝廷に恭順を示そうとした慶喜が、江戸城で対面を願ったのが、静寛院宮(せいかんいんのみや/深川麻衣)だった。静寛院宮は仁孝天皇の第8皇女で、幼名を和宮(かずのみや)といった。14代将軍・徳川家茂(磯村勇斗)に降嫁し、家茂の没後に落飾。静寛院宮となった。
慶喜は静寛院宮に朝廷への斡旋を依頼するつもりだったと考えられる。ドラマでは拝謁を拒絶され、代わりに天璋院(てんしょういん/上白石萌音)が応対しているが、実際には慶喜は静寛院宮に会っている。もっとも、当初、静寛院宮はフランスの軍服を着て江戸城にやってきた慶喜との面会を拒んだ。江戸城のしきたりで、洋服姿の者は受け入れられない、ということらしい。それを知った慶喜は慌てて着物に着替えたことで、静寛院宮への謁見が認められたのである。
二人の間にどのような会話が交わされたのかは分からない。ひょっとしたら、慶喜は静寛院宮を通じて、自身は朝敵ではないという弁明のみならず、助命を嘆願したのではないか、ともいわれている。
静寛院宮が公家に送った手紙が何通か残されている。そこには、ドラマにもあった通り、慶喜のことはどうなってもいいが、徳川家のお取り潰しだけはご容赦願いたい、といった内容が認められている。慶喜個人のことはどうあれ、静寛院宮が徳川家存続のために動いたのは確かだ。
こうした江戸の動きに対してまったく動じなかったのが、西郷吉之助(=隆盛、博多華丸)だ。西郷が大久保一蔵(=利通、石丸幹二)に宛てて送った手紙の中に、「和宮様といっても、今は賊の一味」といった言葉がある。ドラマでは天璋院からの徳川家存続の嘆願に弱った顔つきをしていたが、史実の西郷は、おそらく聞く耳を持たなかった。天璋院に対しては別の思いもあったかもしれないが、誰が何と言おうと、西郷の頭の中には武力による幕府の討伐、すなわち戦争しかなかったと考えられる。
さて、ドラマでは「花と散らん」との言葉を残して逝った平九郎だが、実際は辞世の句を残している。懐に忍ばせてあったものだという。そこにはこうあった。
「惜しまるる時ちりてこそ世の中の 人もひとなれ花もはななれ」
平九郎がどんな最期を遂げ、その場所はどこだったのか。渋沢がそうした詳細を知ったのは、実は平九郎が自刃してから5年後の1873(明治6)年のことだったらしい。渋沢は近隣に埋葬されていた平九郎の首と遺体を回収して寛永寺で仏事を行なった後、東京都台東区の谷中にある渋沢家墓地に改葬している。