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【青天を衝け】渋沢栄一はパリに手紙が届く前に大政奉還を知っていた!


8月15日(日)放送の第24回は、遠くパリにいる渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)らのもとに次々と寄せられる日本からの知らせにより、使節団が帰国を余儀なくされていく過程が描かれた。希望に満ちた篤太夫のパリでの暮らしは、幕府崩壊という前代未聞の事態を前に、突如として終わりを告げることになった。


 

やむなく留学中止に追い込まれる

パリの旧証券取引所。ドラマで渋沢がエラールから「債券」について教わっていた場所で、実際に視察にも訪れている。エラールは渋沢に数々の経営知識を授けた。

 江戸幕府が終焉を迎えた1867(慶応3)年の暮れ。篤太夫が飛び出してから5度目の正月を迎えようとしていた渋沢家に、篤太夫から手紙が届いた。その中には洋装姿の篤太夫のホトグラフ(写真)が同封されていた。妻の千代(橋本愛)は顔をしかめて言う。「あさましい……」。あれほど忌み嫌っていた外国人と同じ外見になった夫の心境が、千代は理解できずにいた。

 

 一方、パリの篤太夫らのもとにも、幕府から「御用状」が届いた。1868(慶応4)年12日のことである。そこには、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜(草彅剛)が朝廷に政権を返上し、今後は薩摩藩などと協力して政治にあたることになった、と書かれてあった。篤太夫ら幕府の使節団一行には、にわかに信じがたい情報だった。

 

 日本がどのような状況であれ、徳川昭武(=民部公子、板垣李光人)の留学生活を続けるためには、幕府からの月5000ドルの送金のみが頼りと覚悟した篤太夫は、以後の倹約の方策を練った。

 

 そんな折、篤太夫はフリュリ・エラール(グレッグ・デール)から証券取引所で「債券」の仕組みを教わる。国債や社債とは、政府や会社に短期間で金を貸し付けること。預けた期間に合わせて利子がつき、借り集めた金は事業の役に立つ。つまり、多くの人から少しずつ金を集めることで、一人ではできないような大きなことを為すことができる。篤太夫は、エラールの教えを胸に刻んだ。

 

 その後も相次いで日本から届く書状には、大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いが勃発し、慶喜が朝敵の汚名を負うことになったと記されていた。さらに、昭武のもとにも、新政府から帰朝するよう公文が届く。また、水戸藩主・徳川慶篤(とくがわよしあつ/中島歩)が亡くなったことを受け、水戸徳川家の跡継ぎにするべく、昭武の帰国を催促する知らせも舞い込んだ。

 

 留学を続けたい昭武と篤太夫だったが、状況がそれを許さない。やむなく、一行は帰国の途につくことになったのだった。

 

幕府の知らせの前に変革を確信していた

 

 ドラマに出てきた「御用状」とは、幕府や藩が発行する公的な書状のこと。当時、日本からフランスへの手紙は、約2か月を要した。渋沢らが幕府からの御用状を受け取った1868(慶応4)年1月は、慶喜が大政奉還してから2か月半ほど経ったタイミングである。書状が届くまでに王政復古の大号令があり、届いた直後には、鳥羽伏見の戦いが勃発している。

 

 ドラマでは御用状の内容に動揺する面々が描かれているが、日本の政治体制が刻々と変わっていく様を、渋沢らがこの時に初めて知ったわけではない。渋沢の自伝である『雨夜譚』(あまよがたり)によれば、1867(慶応3)年10月に発行されたフランスの新聞には「日本の京都において大君が政権を返上した」との噂が掲載されていて、それ以降、続報が報じられていたという。もっとも、使節団の中で信じる者はおらず、昭武も、昭武の教師役だったヴィレット(サンシモン)ですらも、「これは虚報だ」と高をくくっていたという。

 

 しかし、渋沢のみが報道を真実だと看破していた。訝る面々に対して、この噂は信用に足る、と説明したが、納得する者はほとんどいなかったようだ。

 

 本国からの知らせでようやく事実を受け止めた一行だったが、栗本鋤雲(くりもとじょうん/池内万作)は頑なに信じなかった。その後に続々と届いた書状でようやく納得した栗本は、「なぜ足下は最初からこの報知を実説と認めていながらいささかも驚愕の体のなかったのであるか」と渋沢に詰め寄った、との逸話も『雨夜譚』には残されている。

 

 そもそも渋沢は、幕府は持つまいと渡航前から考えていた。そのために、慶喜の将軍職継承に反対していたわけだが、そんな渋沢の思惑を大きく外れていたのが、鳥羽伏見の戦いだった。『雨夜譚』によれば、渋沢は旧幕府があまりに戦下手で悲憤慷慨した、とある。

 

 渋沢は、兵略を論評する立場にはない、と前置きしつつも、「戦いになれば、(慶喜のお膝元である)兵庫を抑えるべきなのに、ただただ大坂を守り、その上京都に兵を出して後先考えずに事を起こし、ついには朝敵の汚名を負うのは、拙策ともいえるし、愚昧ともいえる」と痛烈に旧幕府の動き、ひいては慶喜を批判している。

 

 さて、パリ滞在中の渋沢の日記『巴里御在館日記』によれば、1月の御用状到着から10月の帰国に至るまで、続々と日本の動向を知らされていることがうかがえる。

 

 55日には慶喜が寛永寺にて謹慎に入ったこと。76日には江戸城が尾張藩に引き渡されたこと。94日には彰義隊と新政府軍との戦いがあったことなどを知ったという。

 

 海の向こうで起こっている本国の大混乱は、篤太夫ら一行の心中に大きな不安を抱かせたに違いない。

 

 ちなみに、ドラマの冒頭で妻・千代が、渋沢の洋装姿を「あさましい」と非難している場面があるが、これに対して弁明する渋沢の手紙が現存する。実際の千代は「なさけなき姿」と手紙でなじったようで、渋沢は「異国の文化をよく知ろうと思えば、違和感のある姿で相手に接しても無理だ。同じような格好をすることによって、より多くのものを吸収できるのだ」といった内容で返信をしていた。この手紙は、東京都北区にある渋沢史料館に保管されている。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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