一橋慶喜は泊まり込みで天皇を説得していた!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
「日本資本主義の父」と呼ばれた、渋沢栄一が主人公の大河ドラマ『青天を衝け』の第19回が放送された。近代の日本経済に大きな足跡を残すこととなる渋沢が、幕末の動乱期をいかに過ごしたかが、現在のドラマの舞台だ。今回は、渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)が一橋家の財政建て直しに奔走し、勘定組頭に抜擢される姿が描かれた。一方で、ついに朝廷と幕府は、日本の行き先を決める重大な決定を下すこととなる。
「攘夷 VS 開国」の議論がついに決着

京都御所内にある小御所。貴族の建築様式である寝殿造りと武家の建築様式である書院造りを組み合わせた建物で、将軍や大名など武家との対面に用いられた。
今回の放送は、篤太夫が前回の放送で提案した、一橋領で生産される米、木綿、硝石をもとにした商売に着手するところから始まる。同時に、幕府では小栗忠順(武田真治)が、薩摩藩では五代才助(ディーン・フジオカ)が、海外を相手にした商売に乗り出していた。世の実権を握るのは武力のみではなく、経済の知識を必要とする。そんな時代に変わりつつあった。軍事力と経済力を手に、小栗は薩摩藩を潰そうと目論み、五代は薩摩藩が幕府の先を行くことを誓った。
そんななか、幕府は孝明天皇(尾上右近)からの勅許について議論を重ねていた。幕府が開国のために結んだ修好通商条約は、天皇からの勅許なしには有効にならない。しかし、朝廷は、幕府からの再三の要望にもかかわらずに勅許を出さずにいた。外国の艦隊を前に危機感を募らせる幕府は、勅許なしで開港してしまおうとする意見すら出ていたのである。
それに異を唱えたのが一橋慶喜(草彅剛)だった。慶喜は、あくまで勅許を得なければ国の根源が崩れる、と釘を刺す。朝廷と幕府との板挟みとなっていた慶喜は、事態を打開する策を模索していた。
そんな慶喜の心を軽くしたのは篤太夫であった。一橋家の財政再建に奔走する篤太夫は言う。「仁をもって得た利でなくては意味を為さない」。それを聞いた慶喜はつぶやく。「仁をもって為す、か……」
一橋家の財政を瞬く間に再建させた篤太夫を勘定組頭に抜擢した慶喜は、決死の説得によって孝明天皇の心を動かすことに成功。ついに勅許が下った。世は開国へと大きく舵を切ったのである。
その頃、二度の長州征伐で長州を打ち負かすどころか、撤退に追い込まれた幕府は、その威信を著しく失墜させていた。圧倒的な武力差があったにもかかわらず、苦戦の知らせを聞いた、十四代将軍・徳川家茂(磯村勇斗)は苦悶の表情を浮かべて倒れたのだった。
条約勅許の功労者は慶喜だった
今回は、国論がついに開国へ傾いた、幕末史においても重要なターニングポイントが描かれた。
まず、劇中でも語られていた開国を迫る外国とは、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4か国。彼らは連合艦隊を率いて大坂湾に来航し、条約の勅許を要求していた。
勅許なしの開港を進めようとする幕府を制止した慶喜は、外国に回答期限を延期させる一方で、朝廷に勅許を出させるべく京都と大坂を何度も往復していた。
孝明天皇は大の外国人嫌いで知られる。それは筋金入りで、近隣の大坂湾に外国艦隊が来航していることすら許せなかったようである。それを知っている周囲の公家たちも同調し、ただただ回答を引き延ばし、慶喜らの嘆願をのらりくらりとかわすだけだった。
業を煮やした慶喜は、このままだとまもなく外国との戦端が開かれることになる、と警告。いったん戦端が開かれた後に和議を結ぶなどということはできない。その時こそ、日本全国が焦土と化すであろう、とかなりの熱弁をしたようだ。
ドラマでは心を動かされた孝明天皇が、人払いをして慶喜にのみ勅許を下すことを伝えているが、実際は、わずか数時間で議論がまとまったわけではなかった。慶喜は、「勅許をいただくまでは朝内を下りませぬ」とその場に居座り、京都御所に宿泊したと伝わっている。ここまでした慶喜の姿勢に、公家らも圧倒されたことだろう。
しかし、翌日に開かれた会議でも結論は出ない。そこで慶喜が言い放ったのが、ドラマにも描かれた「責任を取って腹を切る」というものだった。その場合、自分の家臣たちが公家たちに何をするかは責任を負わないとの発言もあったが、ここに至ってようやく、孝明天皇は「御許しの方然るべし」と条約勅許を下すことになった。
同席していた二条斉敬(にじょうなりゆき)によれば、この時、孝明天皇は「とにかく容易ならざる事態である。皇統を連綿と守り抜くことは大事であり、自分の外国が嫌いだという一分の儀でこれを廃絶することはできない」とのお気持ちを述べられたという。さらに、外国艦隊に攻め込まれては万民が塗炭(とたん)の苦しみに遭うことが目に見えており、そうなるのを見たり聞いたりはしたくない、というのが決断の理由だったようだ。
いずれにせよ、慶喜の決死の説得により、日本の国策として「開国」が決定した重要な場面であった。
ちなみに、開国か、攘夷かで長らく揺れた国内であったが、この頃、イギリスの外交官であるアーネスト・サトウが大坂の町を歩くと、大変に歓迎された、と日記に残している。揉めていたのは武士や公家たちだけで、実はすでに多くの民衆は外国人を受け入れていたようである。