禁門の変による悲劇で攘夷派の重要人物が亡くなっていた!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
現在放送中の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。後に近代の日本経済に大きな足跡を残す渋沢が、幕末の動乱期をいかに過ごしたかが、現在のドラマの舞台だ。この連載では、ドラマ内で語られることのなかった史実を通して、劇中での出来事や登場人物、時代背景などについて考察していく。6月6日に放映された第17回では一橋慶喜(草彅剛)の見せ場のひとつである、禁門の変が描かれた。長州藩が京都へ攻め込んだ禁門の変であったが、京都御所周辺まで巻き込んだ大火によって、ある悲劇が起きていた。
窮地の攘夷派志士たちをさらに追い詰めた禁門の変

京都市中京区に建つ六角獄舎跡。幕末には、井伊直弼による安政の大獄などで捕らえられた攘夷派の志士たちが多く収監されていたという。
今回の放送は、見事に兵を集めて江戸に戻った渋沢篤太夫(=栄一・吉沢亮)と渋沢成一郎(=喜作・高良健吾)に悲報がもたらされるところから始まる。彼らを一橋家に引き入れてくれた恩人である平岡円四郎(堤真一)が暗殺されたというのだ。思わず言葉を失う篤太夫と成一郎。
一方その頃、長州藩の攘夷派が京都御所に向けて進軍していた。目的は、京都から追放された藩の立場の失地回復。長州が訴える攘夷はあくまで天皇のためであると証明するために実力行使に出たのだ。彼らの計画には天皇を拉致することも含まれていた。
あろうことか、京都御所に向かって発砲までして進撃してきた長州藩に対し、禁裏御守衛(きんりごしゅえい)総督に任命されていた一橋慶喜(草彅剛)は、会津藩とともに迎撃。苦戦を強いられたが、圧倒的な火力をもつ薩摩藩を束ねる西郷吉之助(=隆盛・博多華丸)らが加勢したことにより形勢を逆転し、慶喜らは長州藩の撃退に成功した。
長州藩が京都御所を襲撃した事件は禁門の変と呼ばれる。この事変は、慶喜の名声をおおいに高めた。慶喜は朝廷、ひいては天皇からの信頼を勝ち得たのである。
一方、長州藩は失地回復どころか、天皇から敵視されるに至ってしまう。つまり、長州藩は朝敵と見なされることとなったのだ。
京都御所周辺の市街地に甚大な被害を与えた大火
禁門の変がおよぼした影響は、慶喜や長州藩のみではない。
京都御所の周辺は、多くの火災に見舞われた。市街地での戦闘だったこともあり、焼き出された家屋は2万8000戸余りにおよぶ。1200年の都といわれる京都は、応仁の乱や織田信長による焼き討ちなど何度も大火災に遭ってきたが、この時の被害もまた甚大だったのである。
この時、思いがけない悲劇の舞台となったのが、六角獄舎(ろっかくごくしゃ)と呼ばれる牢屋敷であった。迫り来る炎と延焼に慌てた役人は、逃亡されるのを恐れて、囚人たちを片っ端から斬首していったのだ。斬首された囚人のなかには、まだ判決の出ていない者もいた。そのうちの一人が、古高俊太郎だ。
古高は情報を収集したり、武器を調達したりするなどして長州藩ら攘夷派の志士たちを支援していた人物。しかし、元治元年(1864)6月5日に京都の治安を守るべく活動していた新撰組によって捕縛された。足の甲に五寸釘を打たれ、空いた穴に火のついたロウソクを立てられるなど、むごたらしい拷問を受けている。凄惨な尋問の末、古高はついに自白に追い込まれた。
古高の証言により、新撰組は攘夷派の志士たちが池田屋で会合を行うことを突き止めたといわれている。こうして新撰組は池田屋に踏み込むことができた。これが、第16回で描かれた池田屋事件である。
池田屋事件によって、新撰組の名は京都中に広く知れ渡ったが、怒り心頭となったのが、長州藩の志士たちだ。頑なに攘夷を唱える長州藩の志士たちは、大切な同志の命を奪われたことで、ついに挙兵へと舵を切る。慎重を期すべしといさめる仲間たちの声はもう届かず、京都への進軍が始まった。これが禁門の変となったのである。
ちなみに、禁門の変によって生じた火災が六角獄舎までおよぶことはなかった。建物は明治以後まで存続している。
悲劇の死を遂げた古高だったが、明治24年(1891)に正五位を追贈されている。