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5カ国との条約調印を行った唯一の幕臣・岩瀬忠震(いわせただなり)

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #013

米・露・蘭・英・仏との条約調印にすべて立ち会う

岩瀬が学んだ昌平坂学問所があった湯島界隈。現在の東京都文京区にある文京エリアでもある。

 文政元年(1818)、岩瀬は旗本・設楽家に生まれたが、血縁を辿ると宇和島藩・伊達氏に繋がり、伊達政宗の子孫の一人でもあった。叔父に鳥居耀蔵・林復齋(はやしふくさい)などがいる。昌平坂学問所に学び秀才の評判があった。後に旗本・岩瀬家の養子となり、老中首座・阿部正弘に登用されて目付となり、外交・海防事務に従事。講武所・蕃書調所(ばんしょしらべしょ-洋学研究機関・翻訳所)・長崎海軍伝習所の開設や品川砲台築造などを行っている。

 

 安政2年(1855)に来航したロシアのプチャーチンとは幕府の全権大使として交渉を進め、日露和親条約締結に臨んだ。また安政5年(1858)には、アメリカ領事のタウンゼント・ハリスと交渉して日米修好通商条約に同輩の井上清直と共に署名している。

 

 岩瀬は、主に外国との交渉や条約調印・朝廷との交渉(勅許獲得)など、幕末の海外問題に精力的に取り組み、日米修好通商条約の勅許(天皇の許可)には失敗したものの条約を強行した。その後に外国奉行に就任した。さらには、アメリカ・ロシアに続いて、オランダ・イギリス・フランスの合計5カ国との条約調印すべてに、岩瀬は立ち会っている。幕末の幕府高官でこうした「歴史の重要な場面」に立ち会ったのは、岩瀬のみである。

 

 しかし、将軍継嗣問題にあって岩瀬は、一橋派に属したために大老・井伊直弼の怒りを買い(安政の大獄)、作事奉行へと左遷、さらには蟄居(ちっきょ)ともなる。文久元年(1861)に失意のうちに病死した。44歳の若すぎる死であった。生存していれば明治政府の外国担当として腕を振るったはずである。なお、岩瀬は、島崎藤村『夜明け前』にも登場する。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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