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最後の将軍・徳川慶喜を叱った大名・堀直虎【後編】

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #009

徳川家に義を説き、理を示す

鳥羽伏見敗戦後の将軍慶慶の武士らしからぬ振る舞いを糾弾した直虎。その直後、武士らしく作法にのっとり切腹する。イラスト/さとうただし

 嘉永6年(1853)、直虎17歳の時にアメリカのペリー率いる黒船が浦賀に姿を見せた。江戸中が大騒ぎになる中、直虎は、藩主の兄・直武の名代として警備に立った。間近に黒船を見た直虎が「外国・西欧」を意識した瞬間であった。直虎は日本の海防・防備についての必要を感じ、それが後の須坂藩の軍制改革に繋がる。病弱の兄は文久元年(1861)に隠居し、直虎が須坂藩堀家13代藩主になった。26歳であった。

 

 直虎は、藩主の座に在って藩政改革・軍制改革を目指した。そして「開国の必要性」を意識してか、後に「唐人・堀(外国かぶれの堀直虎)」と大名仲間から揶揄されるほどの西洋通になる。

 

 直虎は後にイギリス式の軍備・軍制に変え、大砲まで据え付けるほどであった。また写真機(カメラ)を買い込み、自らの肖像を家臣に撮らせたりもした。イギリス式の軍備は、16連発銃・7連発騎兵銃などを含めライフル銃によって80人の小銃隊と49人の大砲分隊を編成した。また直虎は、藩内では「須坂騒動」といわれる重臣たちによる不祥事も裁いている。

 

 幕府は、1万石という小藩の藩主・直虎を文久3年(1863)「大番頭(おおばんがしら・江戸城の警備隊長)」に就け、慶応3年(1867)12月には、若年寄兼外国惣奉行に就任させた。若年寄は、老中に次ぐ住職であるし、外国惣奉行も攘夷派を敵に回し、海外との交渉を担う難しい役目であった。

 

  慶応3年の10月、将軍慶喜は大政奉還し、翌年1月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍は薩摩・長州軍に敗れる。慶喜は6日には大坂城から逃げ出し軍鑑・開陽丸で12日には江戸に上陸、そのまま浜御殿に入った。13日から江戸城で大評定が開かれたが「徹底抗戦論」と「恭順論」が錯綜して会議はまるでまとまらない。そんな最中の17日、直虎はある決意を固め、白装束の上に裃を着けて将軍の前に出た。

 

「恐れながら」と声にした。直虎は

 

①東進する薩長軍に対して将軍家(慶喜)はどのように対処するのか。今後の徳川家の在り方を含めてご教示頂きたい

 

②評定の席に京都守護職・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)殿と京都所司代・桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)殿の姿がない(勝軍命令で不在)のはどういう理由か

 

③大名は徳川恩顧にどのように報いるべきか

 

④将軍家が鳥羽伏見合戦を中途にして江戸に逃げ帰られた責任をどう考えるのか。大政奉還後の大名家はどうすればいいのか

 

⑤徳川家を滅亡の淵に導く権利など将軍家にはない。もしも権利があるならば、責任もある。その責任はどのようにして取るつもりなのか

 

 

 武士の責任の取り方はただ1つ。ご存知であろうが、武士とは卑怯はしないものである――

 

 将軍が1小大名に「義」を説かれて叱責されるのを目の辺りにした諸侯は、驚きで背筋を立て直した。

 

 この後、直虎は控えの間に戻り、その場で作法通りに腹を切り、最後は喉を脇差しで突いた。堀直虎、享年33歳であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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