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自ら脱藩して官軍と戦った大名・林忠崇 其の一

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #007

「義は我にあり」の一念で脱藩

藩主であるにもかかわらず脱藩し、その後は箱根、伊豆方面で新政府軍と交戦。各地を転戦後、仙台藩に降服するまで幕府への忠誠を貫いた。イラスト/さとうただし

 俗に言う「徳川300年」とは、慶長8年(1603)、徳川家康が征夷大将軍となり「徳川幕府」が成立してから、慶長4年(1868・9月に改元して明治元年)までの実質265年間をいう。

 

 この265年間に改易(取り潰し)された大名家は多いが、自ら脱藩して藩主の地位を捨て去った大名は、ただ一人だけである。それが幕末の上総請西(千葉県木更津市請西)藩主・林忠崇(はやしただたか)であった。

 

 請西藩・林家は幕末近い天保年間(1830~1844)に旗本から大名に列した。いわば新参の大名家である。しかも石高1万石という大名を名乗るにはぎりぎりの家格であり、藩主であった叔父の急逝によって慶応3年(1867)6月、急遽20歳で家督を相続した。とはいえ、幕閣からは「将来の閣老たりうる器」と期待されていたようでもある。

 

 しかし、この4カ月後に将軍慶喜は大政奉還を行う。翌年1月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗退。慶喜は幕軍を残したまま江戸に逃げ戻った。忠崇は、この時鳥羽伏見に参戦すべく船上にあった。そしてその後も忠崇は、東上してくる薩長軍を迎撃する腹を固めていた。それは、忠崇にとっての「徳川恩顧への義」であった。「義は我にあり」の一心であった。

 

 2月12日、慶喜が上野・寛永寺大慈院に入り、恭順謹慎を表明し、4月11日には江戸城は無血開城。旧幕府の一部の兵力は薩長軍への徹底抗戦を叫ぶようになっていた。

 

 忠崇はこれに呼応する。幕府が創設した遊撃隊(剣客を揃えた集団)が請西藩に姿を見せた。この中には心形刀流の天才といわれた伊庭八郎などもいた。忠崇は、この遊撃隊と力を合わせて官軍と戦う腹を固めた。閏4月3日、21歳の忠崇は請西藩士59人を率いて脱藩出撃した。大名自らの脱藩などは例がない。

 

 ところが房総方面に進出していた東海道先鋒総督軍(官軍)の軍監たちは、忠崇の行動を知らず、房総方面の諸藩に対して「出兵して勤王に励め」という通達を送ったほどであった。

 

 忠崇はまず11万3千石の小田原藩・大久保家(藩主・忠礼)に協力を求めた。しかし、小田原藩は官軍に対しても、忠崇らに対しても、同様に武器・軍資金を贈り、実質的に厄介払いをしたのであった。

 

 21歳の忠崇率いる軍勢(後に遊撃隊に吸収)は、次に韮山代官所を目指した。ここには、先代の代官・江川太郎左衛門英龍による反射炉があり、鉄砲や大砲の鋳造などを行ってきたという実績があった。忠崇は、しかしここでも助力を得られず、軍資金1千両を得たのみで撤退。次の目標として、甲府城乗っ取りを策した。だがこの時点で甲府城は官軍が接収していた。

 

 20日、忠崇は甲府城を目指して甲州・黒駒まで来た。黒駒に閏4月下旬まで滞在する間に田安家の使者として山岡鉄舟が現れて「撤兵」を求めた。しかし忠崇は退かなかった。

 

(続く)

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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