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自ら脱藩して官軍と戦った大名・林忠崇 其の二

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #008

新政府との激闘を経て

林忠崇。藩主であるにもかかわらず脱藩し、その後は箱根、伊豆方面で新政府軍と交戦。各地を転戦後、仙台藩に降服するまで幕府への忠誠を貫いた。イラスト/さとうただし

 

 結局、甲府城を諦めた忠崇らの遊撃隊は、小田原藩との箱根戦争を経て北上を続け、奥羽列藩同盟の諸藩と共闘を図るが、これも敗戦。忠崇は心身ともにボロボロになるのだった。新政府は5月24日、徳川宗家に対して駿河など70万石を与えることを決定した。

 

 この事実を忠崇が知ったのは、1カ月後であった。「滅亡する徳川宗家のための義」を旗印にして戦ってきた忠崇は、気落ちした。さらに会津藩が降伏した後の9月24日、忠崇は仙台で謹慎した。付き従う藩士は、もはや10人に減っていた。

 

「勝敗が決定した以上戦いを続けることは私戦になる。斬罪覚悟で降伏だ」と思う一方で、忠崇には徳川宗家が安泰となったことへの安堵があった。既に藩主自ら脱藩した請西藩は新政府によって取り潰しになっていた。忠崇は謹慎の後、東京に送られて蟄居。明治5年(1872)1月6日付で罪を許された。その後、農業をやり東京府に下級官吏として出仕したりする。

 

 だが忠崇は、2年であっさりと辞職する。その後、箱舘(函館)で豪商の番頭として務め、さらに大阪府に出仕する。有為転変の身の上である。こんな忠崇を救ったのは、大名時代の重臣・広部周助の3男・精であった。

 

 明治22年(1889)になって、西南戦争で国賊とされてきた西郷隆盛(故人)が、その罪を許されて「正三位」を追贈された。広部精らの家格再興運動は紆余曲折を経て、明治26年(1893)10月に再興が叶い、半年後の明治27年3月、忠崇も「従五位」を授けられることになる。忠崇の名誉が回復されたこの時、忠崇は47歳になっていた。

 

 その後忠崇は、宮内省の東宮職(皇太子に関する事務所)に出仕した。が、病気を理由に職を去り、健康が戻った後は徳川家康の廟地・日光東照宮の神職として勤務した。

 

 忠崇には、娘がいた。その二女をミツという。晩年は、このミツが忠崇の面倒を見た。ミツは商会を経営しており、後には東京・豊島区にアパートを建てた。この一角を自分の住処とした忠崇は、昭和16年(1941)1月22日、病死した。享年94。

 

 忠崇には辞世の句もあるが、むしろ死の3年前に新聞記者たちに披露した「琴となり下駄となるのも桐の運」という俳句こそ、忠崇の人生を物語っているようで好ましい。同じ桐(大名家)として生を受けながら、忠崇は(栄誉に浴する)琴ではなく、(人に踏まれる)下駄であったが、それも何も「運」次第というのであった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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