長崎伝習所で初めて「国民」という概念を学んだ赤松小三郎
新しい時代・明治をつくった幕末人たち #003
伝習所での生活でオランダ語の実力に磨きをかける
10月20日に長崎に着くまでも、それから着いてからも、勝麟太郎(海舟)が最も信頼したのが赤松小三郎であった。小三郎に航海日誌(「耳袋」の意味で「美々婦久呂」と小三郎は名付けている)を任せ、情報を取らせた。小三郎は、50日間の航海日誌の最後に「北風、小雨」と記している。
伝習所では、航海術・造船・砲術・測量術・算術・船の機関学などを学び、測量は砲術は実地訓練があった。しかも講師はすべてオランダ軍人であり、間には通訳が入った。だが、意味を理解できない伝習生がほとんどであった。だが小三郎は既にオランダ語を学んでおり、長崎に来てからはさらにその実力に磨きを掛けた。長崎での足掛け5年間で小三郎は74冊の蘭書を読破したという。
伝習所の二期生には、榎本釜次郎(武揚)、肥田浜五郎(後の咸臨丸の機関長)などがおり、さらに三期生として赤松大三郎(後に則良。明治期には貴族議員・軍人)、松本良順(医師)などがいた。そのほとんどが、後に咸臨丸のアメリカ渡航の原動力になる秀才たちである。伝習所での練習船は咸臨丸であり、勝が責任者となって五島列島や遠くは鹿児島まで航海した。
小三郎は、勝の従者として、伝習生として忙しい生活を送る傍ら、暇を見つけては多くの蘭書の日本語訳に取り組んだ。現在残されている訳本は、銃の射撃方法や扱い方を解説した専門書『新銃射法論』『矢ごろのかね』、馬に関する専門書『選馬説』だけである。そればかりか、小三郎は講師であったオランダ軍人・カッティンディーケ大尉から「国民」という言葉とそのの意味を知らされた。大尉は「国民とは貧富や身分の差別がなく、人は誰でも法の下で同等である、という意識、あるいはそうした存在をいう」と話した。小三郎の胸に「同感」という思いが浮かんだ。
幕閣は井伊直弼が大老に就任し、アメリカなど外国と次々に条約を結び、反対の声を抑えるための「安政の大獄」が始まっていた。さらに、江戸築地に軍鑑操錬所が設置され、長崎伝習所は閉鎖が決まった。安政6年(1859)1月、西洋の近代技術とオランダ語を身に付けた小三郎は、勝とともに江戸に戻った。だが、小三郎はカッティンディーケが言った「国民国家」などについてもっと知りたいと思うようになっていた。
これが、小三郎の次の興味・学問の対象となる「英学」「英語」に向かわせたのだった。特に議会制度には興味があった。これが、日本で最初の「議会制民主主義」を提唱する先駆者・赤松小三郎の原点となっていく。
小三郎は江戸に戻ると、伝手を頼って佐倉藩堀田家の家臣で英語に堪能な手塚律蔵が江戸本郷に開いた私塾に入門した。この塾には、佐倉藩の津田仙(津田塾大の創始者・梅子の父)、津和野藩医の息子・西周や長州藩士・木戸孝允なども学んでいた。学び始めた小三郎は、師匠の手塚から驚くような情報を知らされたのであった。