×
日本史
世界史
連載
エンタメ
誌面連動企画

『船中八策』の本当の作者・赤松小三郎<其の六>

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #006

議会制への志半ばで凶刃に倒れる

赤松小三郎肖像写真/上田市立博物館蔵

 小三郎の意見書は先ず「御改正之一二端奉申上候口上」とした。意見書の順を追う。

 

 第1に「天幕一和」を説いた。これは「公武合体」を指す。が、小三郎の基本には先に天皇を戴くことから始まる「大政奉還」があった。だからこそ「天皇を補佐して政治を行う者は、将軍・公卿・大名・旗本から六人を選んで彼らに宰相(総理)・財政・外務(外交)・軍事・司法・税務を担当させる。役人は門閥を論じない」と展開する。門閥への言及も、これで苦汁を舐めた小三郎らしい。

 

 次が「議政局を立て、上下に分ける。上局は三十人で構成し公卿・藩主・旗本より選ぶ。下局は百三十人で、藩の大小に応じて数人ずつを入札(選挙)で選ぶべし。門閥にかかわらず、道理を弁明して私なく人望のある人を公平に選ぶべし」という二院制議会を提案している。これが日本における初の二院議会制度の提案であった。

 

 そして小三郎の提言は「万国普通の道理(議会政治と選挙で宰相を選ぶことなど)」を定め、「大小学校をつくり、大学には役に立つ西洋人を採用し、国中の人民を文明に育てるべし」と教育制度にも言及する。さらに「貨幣は人口と物品に応じて平均を取り、金銀銅貨の割合も品位も外国と同等にすべし」「工業を発達させて良品を廉価にて販売し、大いに西洋人を雇うべし」「ヨーロッパ人に比べてアジア人は肉体的に劣る。身体を大きくするために肉食すべし」があり、また「軍事強兵」「兵制改革」なども含めて7つの意見だった。

 

 小三郎の視点には、日本の農民が貧困と病に疲れている現状打破と「脱アジア」があった。

 

 龍馬の「船中八策」は、同じ年の6月15日に書かれたとされる。ところが、この八策の中身は、ほとんど小三郎の意見書と同様であり、言葉遣いも「上下議政局」と奇妙に一致し、内容の「金銀物価・外国との平均の法」などにも「意見書」の改竄が感じられる。

 

 同様に小三郎の意見書は、島津久光にも幕閣にも提出された。上田藩は俄に小三郎の実力を認め、強引に上田に戻すことにした。

 

 小三郎の最後の講義は慶応3年9月2日。「野外連隊教練指導法」であった。別れを告げた小三郎は、4月に髷を切って洋服姿で映した写真を懐にしまった。その夜、送別会があった。弟子たちは口々に別れを告げた。

 

 翌日の3日、京都市内の知人友人に挨拶に出向く小三郎は、四条烏丸通りで中村半次郎(桐野利秋)らと出会った。いずれも昨日まで弟子だった薩摩藩士である。瞬間、中村は抜刀した。小三郎は、藩主・久光から貰ってあった銃を出したが、一瞬中村の刀が早かった。背後にいた田代五郎左衛門(これも弟子)も背中から斬り付けた。小三郎は前後から斬られて絶命した。白昼での出来事であり、刺客たちは逃げ去った。

 

 その後、明治期になるまで、犯人たちは不明のままとされてきた。小三郎が殺された理由や小三郎の功績と存在は、今もなお歴史の闇に埋もれたままである。

 

 そしてこの2カ月半後、龍馬は京都・近江屋で何者かに襲われて中岡慎太郎と共に果てる。

KEYWORDS:

過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

最新号案内

歴史人 8月号

江戸庶民の衣食住

天下泰平を謳歌した庶民の「暮らし」と「仕事」を図解解説!