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赤松小三郎の聴講に薩摩・肥前などの藩士、さらに新選組隊士までもが訪れた理由

新しい時代・明治をつくった幕末人たち #005

「呉越同舟」で諸藩の藩士、さらに新選組隊士までもが聴講に訪れる

赤松小三郎肖像写真/上田市立博物館蔵

 幕府の第2次長州征伐は失敗に終わり、将軍家茂が大坂城で病死した。直後に孝明天皇も急逝した。

 

 

 徳川慶喜が15代将軍になる。こうした慌ただしい時期に小三郎は、軍制や人材登用についての建白書を出すが、幕閣・老中にまで届かなかった。

 

 慶応2年(1866)小三郎が京都で「英国式兵学塾」を開くと、薩摩・肥前・越前・会津・鳥取など諸藩ばかりか、新選組隊士までが「呉越同舟」で聴講に来た。「門弟800人」とまで言われるほどの盛況ぶりであった。薩英戦争を経験した薩摩藩は、英国式兵制を採用していた。そこで『英国歩兵練法』を翻訳し、現時点で最も英国兵制に詳しい小三郎を丸抱えにすることを思い付いた。そして、島津家の若き家老・小松帯刀が小三郎に、薩摩藩塾での講義を依頼してきた。

 

 同じ時期には、幕府も小三郎の価値に気付き「開成所教官兼海陸軍兵書取調役」として採用したいと上田藩に申し入れていた。上田藩は、これによって小三郎という大きな価値を知り、藩の重要人物として断った。

 

 結果として小三郎は上田に戻ることなく、10月には京都薩摩藩邸で開塾する。この薩摩塾には、薩摩ばかりか他藩からも入塾生があった。この時期、龍馬は寺田屋で幕吏に襲われお龍の機転で助けられている。

 

 小三郎は解説する。「どうして英国式の歩兵練法が必要か。それは、新しい武器の出現によって集団による戦闘の形が全く変わったからだ」「例えば大砲を撃つ。すると目標と大砲の距離を測ることが大事になる。それが歩兵訓練の第一歩だ」「大砲にも、小銃にも種類がある。だから使いこなすためには、それを見分ける知識も必要になる。だからこそ西洋の科学知識を得なければならない」

 

 薩摩藩は、小三郎に藩所有の『練法』の完全版翻訳を求めた。小三郎は改めて慶応3年5月までに7編9冊の翻訳を完成させる。その完成に感謝して藩主・島津久光は小三郎に16連発のヘンリー騎銃を贈った。この銃は、イギリス製で世界最高性能を持っていた。

 

 同じ慶応3年5月17日、小三郎は越前・福井藩の塾生からの求めに応じて前藩主・松平春嶽への意見書を書いた。春嶽は小三郎に「今後の日本の政体の在り方(公儀政体論)」を求めたのだった。小三郎は直ちに「庶政一新に関する意見書」という7条から成る提言書を書いた。この時期は、龍馬もまた春嶽に接近していたし、春嶽から目を掛けられていたのである。春嶽から政体論を求められた小三郎と、接近して目を掛けられていた龍馬とでは立場はまったく違うものの、二人が非常に近い場所に存在していたことは確かなことである。

 

 小三郎が春嶽に提出した意見書は、文字数にすれば2500字前後、400字詰め原稿用紙でほぼ6枚前後という、結構長い文章であった。その内容を一読した春嶽は感嘆したように言った。「これは一介の兵学者に非ず。所見高邁なる憂国の志士である」。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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