幕末の江戸で遅咲きの花を咲かせた赤松小三郎
新しい時代・明治をつくった幕末人たち #004
幕末の江戸を舞台にその名を知らしめていく
小三郎が知らされたのは「幕府が日米修好通商条約を批准するために、来年アメリカに使節団を送る」という情報であった。「咸臨丸でアメリカに行きたい」と小三郎は思った。幕府の計画は、安政7年(1860・3月から万延元年)1月出発であり、護衛艦の艦長は勝麟太郎であった。だが、護衛艦乗組員に希望したものの、小三郎は選から洩れた。小三郎の前に立ちはだかったのは「門閥」「大禄(金持ち)」という壁であった。信州上田・松平家という小藩の軽輩という立場では、選考の対象にさえならなかったのだ。傷心の小三郎は、上田に戻ることにした。
選出された伝習所の同輩・後輩の中には「赤松大三郎」の名前があった。同じ「赤松」でも・・・。上田に戻った小三郎は自嘲気味に「俺は、大、じゃない。小だから・・・」と自嘲気味に語り、自らの名前を「清次郎」から「小三郎」に変えたのである。
この時期に一度だけ、小三郎は隣藩・松代藩士で海防政策の第一人者・佐久間象山に会っている。象山からの会いたいという手紙に応じたもので、二人は時勢や海防強化の必要性、外国を知ることの大事さなどについて語り合った。
文久の初め頃、小三郎は遅蒔きながら松代藩士・白川久左衛門の娘・たかと結婚した。この時期には、小三郎の存在も少しは認められ、上田藩は「調練方御用掛」という役目に据えていた。小三郎は、時勢が激しく移り変わっていくことを予測して、藩の重役宛に「富国強兵のために、門閥・録高ではない人材登用を図るべき」とした藩政改革を勧める建白書を提出した。藩は、小三郎の具申によって兵制改革の一端としてオランダ式ライフル銃百挺を購入した。笑うのは、1石だけ褒美が出たことであった。
おりしも元治元年(1864)幕府による第1次長州征伐が起き、小三郎も11月には武具調達などのために江戸に出た。ちょうど、坂本龍馬の活躍が始まるのもこの時期だが、小三郎と符丁を併せたように、二人はほぼ同じ時期からこの後5年間を生きるのである。
江戸に出た小三郎は、もっと英語と英学を学ぼうと、アプリンというイギリス公使館付きの騎兵大尉を紹介された。小三郎は、藩からの許可を得て熱心に横浜まで通って学び、確実な英語・英学を身に付けていった。二人の間ではオランダ語が共通言語として使われた。そして、慶応元年(1865)、アプリンから奨められた1冊の英書を読んだ。そして翻訳を実行に移した。翻訳作業は金沢藩士・浅津富之助(南郷茂光)と共同で行った。これが『英国歩兵練法』第1巻である。この翻訳書の序文は、この時代の西洋砲術の大御所として知られる高島秋帆が書いている。それほどの意味のある書物の翻訳であった。
その後、小三郎は第2次長州征伐のために大坂に出向き、公務を果たしながら大坂でも翻訳を続け『錬法』全8巻の翻訳は慶応2年3月に完成する。以後、信州上田藩の赤松小三郎の名前は、全国に知られていくようになる。