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大政奉還で徳川幕府に止めを刺した最後の将軍・15代徳川慶喜

「徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第14回」


徳川家康によって開かれた江戸幕府は、長年にわたる泰平の世を築いた。その間、何人もの将軍に引き継がれ、平穏の時代は約260年も続いた。しかし、何事にも終焉はやってくる。江戸幕府の崩壊を、その中心で体験した最後の将軍・徳川慶喜の軌跡と人柄をたどる。


 

無気力で、優柔不断な男と評された将軍

 

徳川慶喜

15代将軍・徳川慶喜

 

 慶喜は、徳川御三家の一つ水戸・徳川斉昭(とくがわなりあき)の7男として、天保8年(1837)9月29日に誕生した。母は、有栖川家から斉昭に嫁いできた正室・登美宮吉子である。幼名は七郎麿(しちろうまろ)。この2人から生まれたことが慶喜の運命を決定した。

 

 母親は公卿の娘であり、その一族は朝廷にも影響力を持っていたし、父親はかなり個性的な人物として知られる。しかも斉昭は子どもの教育にはうるさい「教育パパ」であった。斉昭は、剛毅な教育方針を慶喜には徹底して行った。衣服や布団は木綿か麻を使用させ、食事は常に一汁一菜。こんな話もある。慶喜の悪い寝相を修正させるために、枕の両側にカミソリの刃を立てたというのである。ややオーバーなエピソードながら、斉昭の個性が分かるというものだ。

 

 慶喜は、水戸・弘道館(こうどうかん)に通いながら学問を積み、その傍ら武術にも精進した。「天晴れな名将に為らせられるべく」教育されたことは確かであった。

 

 また、慶喜には37人の兄弟があったというから驚かされる。しかも父は、嫡男・鶴千代麿(つるちよまろ)の他はすべてどこかに養子として出すつもりでいたという。その中でも慶喜は、周囲からも英名を謳われ、11歳になった弘化4年(1847)9月には、「たって」と望まれて御三卿・一橋家の養子に入った。

 

 この養子縁組を積極的に推進した12代将軍・家慶(父親の11代将軍・家斉が一橋家の出身であることから、家慶にとっても一橋家は大事な血縁の家であった)は、実の嫡男で13代将軍になる家定よりも、英邁とされる慶喜を可愛がった、ともいう。

 

 家慶は、自分の一字を諱に与えるほど慶喜を大事に将来の将軍候補としたのだが、13代・家定就任の時期くらいから慶喜とその周辺には暗雲が立ち込める。というのも、14代将軍候補を巡り、幕閣には「一橋派(慶喜を推薦するグループ)」と「南紀派(紀州徳川・慶福を推すグループ)」が対立した。

 

 この時期以後に大老・井伊直弼による「安政の大獄」があり、徳川斉昭や慶喜らも謹慎・登城禁止などの処分を受けるのであった。将軍位は、井伊直弼(いいなおすけ)の意向もあって結果的に慶福(家茂)が14代将軍となるものの、幕末の苦労を一手に引き受けた形で悪戦苦闘した挙げ句、僅か21歳で病死することになる。

 

 これ以前の文久2年(1862)7月に幕政改革があり、26歳になっていた慶喜は将軍後見職となり、大老と同様の権限を持つ政治総裁職には越前・松平慶永(まつだいらよしなが)が就任した。また京都守護職には会津・松平容保(まつだいらかたもり)が着任した。

 

 後にその配下に新選組が誕生するなど、京都を中心に幕末は動乱の様相をますます濃くしていくのだった。だが、この幕政改革は、薩摩藩など有力な外様大名たちの意向が強く後押しされたものであったから、弱体化している幕府の権威はさらに低下するという危機をも含むものであった。

 

 こうした天秤で計るような難局で、慶喜は天性の饒舌さを天下に見せ付ける。英邁(えいまい)な慶喜の登場という図柄でもあった。そして、幕政改革に実を上げようと「参勤交代制の緩和」「幕府軍制の改革」などを次々に実行に移していく。

 

 その一方で、「攘夷の実行」を迫る朝廷に対して慶喜は「万国一般天地開の道理に基き、互いによしみを通じる今日なれば、ひとり日本のみ鎖国の旧套を守るべきに非ず。故に我より進んでも交わりを海外各国に結ばざるを得ず」という自説に立って朝廷に「開国」を認めるよう働き掛けることにした。

 

 ただ、ここからのエピソードには、慶喜らしい優柔不断さも垣間見られる。政治総裁・松平慶永が尋ねた。「もし朝廷が開国を聞き入れなかったら、あなたには将軍後見職として、徳川幕府の政権返上の覚悟がありますか」。慶喜はこの質問に明確に答えることはなかった。つまり、そこまでの「覚悟」を以て「事に望む」強さがないということであった。

 

 その後、土佐の前藩主・山内豊信から「攘夷というのは、夷(えびす)を征討するのが職掌であるはずだから、もしその開国案が朝廷から承認されなかったら、徳川家は将軍職を(誰か他の大名に)譲ることになりますよ」と言われて、ハッとした慶喜は「開国論」を引っ込めて「攘夷論」に転じてしまう。すると豊信に一橋(慶喜)も案外大したことない、無気力な男だったな」と言われてしまった。この優柔不断さ・実情把握の甘さが、後の「大政奉還」の一因にもなる。

 

監修・文/江宮隆之

歴史人電子新書『徳川15代将軍列伝』より

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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