渋沢栄一は明治当時「徳川慶喜」をどのように見ていたのか?
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち⑤
「公益となるほどの私利でなければ真の私利とは言えない」という信念のもと、維新後に約500社もの会社の設立に尽力した渋沢栄一。そんな渋沢の目から見た江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜とは、どのような人物だったのだろうか?
幕府の幕を下ろした最後の将軍

東京都文京区にある徳川慶喜屋敷跡。約30年におよぶ静岡での謹慎生活を経て、東京に移住した慶喜が最晩年の住まいに選んだのは、誕生した江戸の水戸藩邸に近いこの地だった。
徳川慶喜は、徳川斉昭(なりあき)の七男として、1837(天保8)年に江戸の水戸藩邸で生まれた。斉昭の命により、生後七か月で水戸へ送られ、厳しい教育を受けている。
1847(弘化4)年に一橋家を相続。その後、13代将軍・徳川家定の後継者問題が浮上すると、徳川慶福(後の徳川家茂)を推す南紀派と、慶喜を推す一橋派とが激しく対立した。争いは、1858(安政5)年に南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで決着。井伊は次期将軍を強引に慶福と決めて、一橋派に属した人物を次々に処分したのである。あまりに苛烈なやり方から、井伊の弾圧は「安政の大獄」と呼ばれた。この大弾圧に伴い、慶喜は登城の停止と隠居を命じられている。
1860(万延元)年に斉昭が死去したことで謹慎が解かれると、まもなくして将軍後見職に任じられた慶喜は、朝廷と幕府を連携させる公武合体を目指して奔走。1864(元治元)年には禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に就任し、長州藩が御所を襲った禁門の変では軍勢を指揮した。
1866(慶応2)年に14代将軍・家茂が死去したことにより、15代将軍に就任。フランス公使レオン・ロッシュに接近して軍備の充実を図るなど、幕政の改革に意欲的に取り組んだ。しかし、幕府の衰退に抗することができず、ついに1867(慶応3)年、大政奉還を決意するに至る。ここに260年余の幕府の歴史に終止符が打たれた。
幕府が朝廷に政権を返上しても、国政の主導権は依然として幕府、ひいては慶喜の手にあると考える薩摩藩は、旧幕府を挑発して戦を起こした。圧倒的な戦力を持ちながら、旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いで惨敗し、慶喜は江戸へと逃走。朝敵の汚名を着せられると、朝廷へ恭順の意思を示すために自ら上野寛永寺で謹慎し、水戸、静岡と所を変えながら、謹慎生活を送った。1869(明治2)年に謹慎を解かれるも、約30年の間、慶喜は静岡の地で隠居暮らしを続けたのだった。
慶喜を「犠牲的観念の権化」と評した渋沢
「公(慶喜)が国を思ふ所の御思慮の深遠なる事は、私どもの凡慮の及ぶ所でないと深く感激して……」
これは、渋沢が編纂した『徳川慶喜公伝』の前書きにある渋沢の言葉である。
慶喜は、鳥羽伏見の戦いの折、総大将であるにもかかわらず、戦闘が続いているさなかに兵を置き去りにして大坂から江戸へと逃げ帰った。慶喜が歴史の表舞台から姿を消した瞬間であった。その後、謹慎生活に入り、1897(明治30)年に東京に移住するまでのほとんどを静岡で過ごした。その間、慶喜はひたすら沈黙を守り、人と会うことを拒み続けたという。
そんな中、慶喜が謁見を許す数少ない人物の一人が渋沢だった。かつての主君に対する変わらぬ忠義で、渋沢は当初は慶喜とともに静岡で暮らしていた。
その後、静岡藩に出仕し、明治政府の官僚を経て、実業界で華々しい活躍をすることとなるが、その一方で、渋沢は慶喜の名誉回復を願っていたのである。
『徳川慶喜公伝』によれば、渋沢が慶喜の名誉回復の事業として伝記の編纂を初めて口にしたのは、慶喜の静岡暮らしが24年目を迎えた1893(明治26)年のこと。実は、渋沢自身も幕末の慶喜の動向には首を傾げていた節がある。渋沢の自著『実験論語処世談』には、こういう記述がある。
「大政奉還は余儀ない事であるとしても既に伏見鳥羽の衝突があつた上は致方の無いこと故、そのまま引つ込んで恭順の意を表するなどは、余りに意気地が無さ過ぎると思ひ……」
ところが、そうした思いが変わっていったことが『徳川慶喜公伝』に記されている。
「追々と歳月を経るに従つて、政権返上の御決心が容易ならぬ事であつたと思ふと同時に、鳥羽・伏見の出兵は全く御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、已むを得ざるに出た御挙動である事……」
沈黙を守り続ける慶喜を、渋沢は次のように評している。
「慶喜公は一種変つた心持を持つて居られたお方で、自分で自分を守る処をチヤンと守つて居りさへすれば、世間が何んと謂はうが、他人が何と非難をしようが、そんな事には一向頓着せられなかつたものである。之が、恭順の真意を幕軍の者共へ打ち明けて御話しにならず、突然大阪から船で江戸へ廻られ、上野に籠つて恭順の意を表せらるるに至つた所以であるだらうと思ふ。慶喜公は、世間が如何に誤解しても、知る人は知つてくれるからといふ態度に出られる方であつたのである」(『実験論語処世談』)
旧幕臣が訪れても会おうとはしなかったと伝わる慶喜。おそらく最期まで沈黙を守り通そうとしていたところ、信頼する渋沢から自伝編纂の話が持ちかけられた。慶喜は、自分の存命中には公表しないことを条件に渋々引き受けたと言われている。
慶喜は卑怯者とか、臆病者とか言われることが今日でも少なくないが、同時代を生きた人々からの人物評は高い。
例えば、幕府を支援したフランス公使ロッシュは「真に君主の風格を備えている」、イギリス外交官アーネスト・サトウは「これまで見た日本人の中で最も貴族的な容貌を備えた一人」といった具合に絶賛している。
悪意に満ちた酷評にもじっと耐え続けた慶喜のことを、渋沢はこう称えた。
「公(慶喜)が国難を一身に引受けられ、終始一貫して其生涯を終られた偉大なる精神は、実に万世の儀表であり、又大なる犠牲的観念の権化であると思ふ」(『徳川慶喜公伝』)
渋沢が見た慶喜は、自分の立場より危機の迫る自国の行く末を第一に考えた、優れて達観した人物だったといえよう。