渋沢栄一は明治当時「西郷隆盛」をどのように見ていたのか?
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち①
先日、最終回を迎えた大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。長命だった渋沢は、自らの思想や体験談を多数の著書に残しているが、同時に、交わった人物についても書き記している。そこで、ここでは幕末から明治の偉人たちが、渋沢の目にいかに映ったのかを見ていきたい。今回は、維新三傑と称えられる西郷隆盛について取り上げる。
下級藩士から討幕の首領に成り上がった男

京都市上京区にある相国寺。幕末に西郷隆盛が宿泊していた場所で、渋沢が何度か訪ねている。渋沢は平岡円四郎の命で、薩摩藩の動きを探るために西郷との面会を重ねていた。
薩摩藩の下級藩士の長男として、鹿児島城下で生まれた西郷隆盛。名君といわれる薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)に見いだされ、江戸における斉彬の政界工作に携わった。そのなかで西郷は、藤田東湖(とうこ)や橋本左内(さない)といった思想家たちと出会い、ペリー来航によって騒然としていた国の行方を案じるようになる。
斉彬は一橋慶喜の将軍擁立に向けて、さまざまな工作を仕掛けたが、井伊直弼が大老に就任したことで目論見は瓦解。直弼が慶喜擁立派を激しく弾圧するなか、斉彬は病死した。
大恩ある斉彬の死に、西郷は一時、殉死も考えたという。周囲の引き留めもあり、思いとどまった西郷は、1859(安政5)年に藩によって遠島処分となる。これは幕府から身を隠すための処分であった。一時、帰藩を許されたものの、藩の実権を握っていた島津久光の命令に違反した行動をとったため、再び流罪となった。
その後、盟友・大久保利通らの働きもあり、1864(元治元)年に赦免され、軍賦役・小納戸(こなんど)頭取に就任。同年に勃発した禁門の変では御所の警護にあたり、長州藩の撃退に大きく貢献した。
西郷は藩兵参謀として、幕府の命による長州征伐に積極的に取り組む姿勢を見せたが、幕臣の勝海舟と出会ったことで態度を軟化。第二次長州征伐では命に応じなかったどころか、逆に、幕府が目の敵にしていた長州藩と同盟を結び、倒幕へと舵を切る。
倒幕の決意は、十五代将軍となった徳川慶喜によって大政奉還された後も変わることなく、武力による倒幕、すなわち討幕という形でより鮮明になっていく。
測り知れぬほどの才覚に感銘を受ける
渋沢と西郷との初めての出会いは、渋沢が一橋家の家臣として京都で暗躍していた頃のことだ。この時の模様は、ドラマの第15回に描かれている。
すでにこの頃、西郷は京都で大変な有名人となっていたが、渋沢の将来性を見抜き、夕食に誘っている。渋沢は薩摩藩の動きを探るために西郷に近づいたのだが、急速に距離を縮め、薩摩名物の豚鍋を共につつく間柄にまでなった。そんな渋沢の目に西郷はどのように映ったのか。自著の『実験論語処世談』の中で、渋沢は次のように述べている。
「恰幅の良い肥った方で、平生は何処まで愛嬌があるかと思われたほど優しい、至って人好きのする柔和なお顔立であったが、一たび意を決せられた時のお顔は又、丁度それの反対で、恰も獅子の如く、何処まで威厳があるか測り知られぬほどのものであった。恩威並び備はるとは、西郷公の如き方を謂ったものであらうと思ふ」
豚鍋を食べていた時に、西郷は当時の渋沢の主君である一橋慶喜の話を持ち出している。西郷によれば、慶喜は確かに傑物だが、惜しいことに決断力を欠いている、と評価していたという。続けて西郷は言った。
「お前一人の力で如何するわけにも行くまいが、兎角能く長上の者に渋沢より話し込み、慶喜公に決断力を御つけ申すやうにするが可い、然らば敢て幕府を倒さずとも慶喜を頭に立てて大藩の諸侯を寄せ集め統率しさへすれば、幕府を今のままにして置いても政治は行ってゆける」
つまり、西郷としては、仮に幕府をこのまま据え置くとして、旧来の老中制度を廃し、諸藩から有能な人材を集め、慶喜をリーダーにすれば、あるいは事態をうまく打開できるかもしれない、と考えていたようだ。
この西郷の言葉が、しばらく脳裏にこびりついていたことを渋沢は告白している。
そんな渋沢による西郷評は、戸惑いを交えながらも、温かく、優しい目線が感じられる。同著から、再度引いてみよう。
「一言にして言えば、すこぶる親切な同情心の深いお人で、いかにせば人の利益を図ることができようかと、人の利益を図ろう図ろうということばかりに骨を折っておられたように私はお見受け申したのである」
渋沢の長い生涯において、大きく影響した人物は幾人もいるが、西郷もそのうちの一人であったことは間違いない。