渋沢栄一は明治当時「井上馨」をどのように見ていたのか?
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち⑧
日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた。そんな渋沢が見た井上馨とは、どのような人物だったのだろうか。
政財界の発展に寄与した明治の一功臣

山口県山口市に建つ「井上馨候遭難の地」碑。俗論派と呼ばれる一派に襲撃された場所で、井上は背中や頭部などに深手を負った。兄に介錯を頼むほどの重傷だったが、50針を縫う大手術の末、奇跡的に回復した。
井上馨が生まれたのは1835(天保6)年。長州藩士の井上光亨の次男として生を享け、幼い頃は畑仕事に精を出した。
17歳の時に藩校明倫館に学び、1855(安政2)年、藩士・志道家の養子となると、藩主に従って参勤交代に随行。江戸では蘭学や砲術について学んでいる。1860(万延元)年に、藩主・毛利敬親(たかちか)から「聞多」の名を下賜された。
やがて尊皇攘夷論に傾倒するようになり、1862(文久2)年には高杉晋作、伊藤博文らとともに英国公使館の焼き討ちに参加。翌年に英国へ密航留学している。なお、この年に志道姓から井上姓に戻した。
1864(元治元)年に攘夷を実行するために藩が外国船を攻撃したことを知ると、すぐさま帰国。この頃、すでに攘夷派から開国派に転じていた井上は、藩と英国公使との調停に当たった。藩の危機を救ったわけだが、井上の「恭順の姿勢を示しながら、幕府の武力には徹底して対抗する」という「武備恭順」の主張は、全面的に幕府に恭順するという一派に動揺を与え、敵視された。その結果、襲撃され、瀕死の重傷を負うこととなった。
翌1865(慶応元)年、負傷から奇跡的に回復すると、高杉晋作らとともに藩政の改革に立ち上がり、恭順派を打倒。その後、討幕のための外国船や武器弾薬の調達に尽力した。
明治維新後、新政府入りし、大蔵大輔などを歴任。国立銀行の設置や会社の創設などに活躍するも、尾去沢(おさりざわ)の鉱山をめぐって司法卿・江藤新平に追及されたことなどにより、辞職に追い込まれた。一時は実業の世界に身を置いたが、1875(明治8)年、元老院の議官に就任。欧米諸国と結んだ不平等条約の改正に取り組んだ。以降、政界、財界ともに影響力を持つ指導者として活躍した。
1901(明治34)年には渋沢栄一を大蔵大臣に据えた組閣を試みたものの、渋沢に辞退されたために断念。その後も実業界の発展に奔走するなど、政財界に多くの功績を残した。
あくまで名を捨てて実を取る姿勢
渋沢は1869(明治2)年に大蔵省に出仕しているが、同じ年に造幣頭・民部大丞(たいじょう)兼大蔵大丞に就任したのが井上だった。つまり、在官中の渋沢にとって井上は、直属の上司という関係だった。渋沢の回想によれば、「私が井上侯を知つた抑もの初めは明治三年であつた」(『渋沢栄一伝記資料』)という。
在官時の二人は、ともに財政面での改革に貢献した。渋沢は「殆んど侯(井上)の女房役を勤めて居た」(『渋沢栄一伝記資料』)ので、銀行条例や貨幣制度、会社法の制定といった課題に、二人三脚で当たっている。
井上はとにかく短気で怒りっぽかったため、「雷親父」というあだ名があった。渋沢によれば、「大きな声で罵詈する事も多く、為めに雷だと人から言はるる位であつた」(『渋沢栄一伝記資料』)という人物だったようだ。しかし、「全く正直と熱心からガミガミ云はれたのであつた。時として正直と熱心が私人関係にまでも及び、ために公私混淆の気味も多少免かれなかつたやうであるが、是も決して御自分の利益の為めではなく、例の性急と熱心とから来たものである」(『渋沢栄一伝記資料』)と分析している。
しかし、渋沢自身に雷が落ちることはなかった。そのため、渋沢は周囲から「避雷針」と呼ばれていたという。
そんな井上を、渋沢はどう見ていたのだろうか。渋沢は、井上に対するこんなエピソードを披露している。
「井上侯の如きは学問もあり、識者でもあり、頭脳も能く利いた人だが、至つて怒を遷したがる性分の仁であつたのだ。如何に思慮分別のある人でも、この事は又別段なものと見え、井上侯は来客でもあつた時に、取次に出た女中が何か一つヘマな真似でもすれば、何の罪も無い客にまで怒を遷し、ガサガサ当りちらして不機嫌な様子をせられたものである。井上侯ほどに頭脳も利き、書籍も読んで居られ、俗に所謂学問のある人でも、怒を遷さぬといふ事は至難としたところであつたらしい」(『実験論語処世談』)
また、井上の人を見る目について、こうも述べている。
「人を用ひるには、まづ其人物の是非善悪正邪を識別するに努められ、それから後に始めて用ゆべきを用ひたものである。随て佞人を仁者であると思ひ違へて之を重用する等の事も無かつたものである」(『実験論語処世談』)
上司として、あるいは指導者として、細かなところに目を配ることのできる人物であったとも評している。
「侯は靄然たる君子人では無かつたが、事に当りて、極めて質実であつて、能く結果を見るの明識に富み人に対して飽く迄親切であつたのは実に敬服推称すべきものであつた。殊に侯の如く国家の大事に任ずる人は、兎角細事に疎なるのが普通であるが、侯は決して夫れで無く、細大共に細密に行届いて、一度び其事に任ずれば徹底せねば止まぬのは、実に天稟といふべくして(後略)」(『渋沢栄一伝記資料』)
長らく政界に身を投じた井上だったが、ついに総理大臣の座を射止めることはなかった。渋沢はそのことについても触れている。
「井上侯は飽く迄も名を捨てゝ実を取る方であつた関係上、花々しい政治家とは成れなかつたけれども、そして又、実務家であるために兎角消極的に見えたけれども、侯は決して世界の大勢、日進の進歩に遅れる人ではなかつた」
「要するに侯は直覚の極めて勝れた、明敏な果断力に富んだ方であつた。政治家たるべく稍々正直過ぎる。然し斯かる欠点があつたとは云へ、創案に豊かな経綸はなかなかに敬服すべきものがあつた。侯は確かに明治の一功臣たるを失はなかつた」(いずれも『渋沢栄一伝記資料』)
渋沢の語る井上像は、政治家や官僚としてだけではない。こんな一面も紹介している。
「大の料理通で、却〻精しいものである。殊に単なる料理通ではなく、御自身で庖丁を取つて料理をなさるのだから本物である。
私なども時々招待されて井上さんの料理の御馳走になつた。かう云ふ時には能く料理の事を説明されて、(中略)なんといつても御自慢なさる丈あつて上手なものである」(『実験論語処世談』)
井上の辞職とともに実業界へと踏み出した渋沢は、その後も公私ともに井上との交流を続けた。そんな親しい間柄だった渋沢だからこその人物評といえる。