渋沢栄一の教育者としての一面が感じられる「商法講習所(一橋大学)」
渋沢栄一の足跡
渋沢栄一を主人公とした大河ドラマもいよいよ最終盤。時代は明治となり実業家として栄一が躍動する場面が多く描かれている。日本の近代経済の発展に大きな足跡を残した栄一だが、社会福祉の充実にも尽力、また「教育者」として次世代を継ぐ後進の育成にも大きな力を入れたという。その功績のひとつであり、現在も日本最高峰の大学のひとつである一橋大学の前身・商法講習所の創立にも尽力したのであった。
「人づくり」を推し進めた栄一が
商業の未来を託した学校

現在の一橋大学産業界の指導者を育成するという建学理念を持ち、国立大学として現在も日本を代表する大学として多くの逸材を輩出する。
渋沢栄一は一貫して「人づくり」を推し進めたこともあり、教育事業にも携わっていた。商法講習所(現:一橋大学)もその一つとしてよく知られている。
明治8年(1875)8月、商業教育の必要性を痛感した森有礼(1847~89)は、福沢諭吉(1835~1901)とともに私塾「商法講習所」を東京銀座尾張町に開いた。
当初、有礼は商法講習所を官立(国立)にしたいと思っていたが、資金不足が問題となり、暗礁に乗り上げていた。そこで、有礼は東京会議所会頭だった渋沢栄一に援助を願い出たが、さまざまな事情から官立を断念せざるを得なくなった。
同年、有礼が特命全公使として清国(中国)に赴任することなり、商法講習所の管理は東京会議所に移管され、経営委員の栄一らに託されることになった。

森有礼(もり ありのり)商業教育のため、学校設立を唱えた森。青年期は英国・米国で学び、新政府に出仕。欧米思想の啓蒙に尽力するともに様々な役職を歴任する。(国立国会図書館蔵)
明治9年に東京会議所が解散したので、商法講習所の管理は東京府に移管された。しかし、財政難が続いたので、東京府から廃校の話を持ち出されることになった。
その際、栄一を中心とした官界、財界の有力者が協力し、廃校の危機を乗り越えた。ところが、以後も財政問題は何度も蒸し返され、当時の農商務省の補助により、切り抜けることになった(その後、東京商業学校に改称)。
明治18年、東京商業学校は文部省に移管され、栄一は校務商議委員を嘱託された。明治20年には、「高等商業学校」に改組され、晴れて官立になったのである。
栄一はさらに商業大学の重要性を説き、実現に尽力した。高等商業学校が大学昇格を果たし、東京商科大学となったのは大正9年(1920)である(戦後、一橋大学に)。
商法講習所は財政難で苦しみ、東京商業学校になったあとも何度か廃校の危機にさらされた。栄一らの努力がなければ、今の一橋大学はなかったのである。
一橋大学
東京都国立市中2-1