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渋沢栄一が愛した中国古典の名言にちなんで名付けられた『誠之堂』 ─青天を衝け ゆかりの地─


近代日本資本主義経済を一からつくった渋沢栄一は、多くの企業の発展にその生涯をかけて尽力した。晩年には、発展に貢献した企業から多くの贈り物が栄一のもとに届き、その功績が偉大であったことを現わすかのごとくなかには建造物もあった。今回は後世の人々にも大切扱われ、渋沢の故郷へ移築までされ、今にその姿を残す「誠之堂」を紹介する。


 

「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」という
儒教の教本の一節にちなんで名付けられた渋沢栄一の遺構

誠之堂(テラス側)平成期に東京から現在の深谷市に移築され、栄一ゆかりの建物として大事に保存されている。移築には1年半もかかり、現在は見学施設として公開されている。(画像提供 深谷市)※公開状況は深谷市HPまで


誠之堂(玄関前)(画像提供 深谷市)

 大正5年(1916)、誠之堂は渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝して、第一銀行の行員たちの寄附によって、東京都世田谷区に建築された。

 

 誠之堂は行員が栄一の喜寿を祝い、その寄付により建築されたのだから、いかに栄一が行員から愛されていたかわかるだろう。

 

 埼玉県深谷市に移築されたのは平成11年(1999)のことで、平成15年(2003)5月30日には国の重要文化財に指定された。

 

 実業家の栄一が拠点としていたのは、明治6年(1873)に設立された第一国立銀行(のちのみずほ銀行など)だった。その2年後、栄一は同行の頭取に就任した。

 

 栄一は寄附された誠之堂の名を自ら名付けた。中国の古典『中庸』には、「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」という一節がある。これが、誠之堂の由来となる言葉である。

 

 誠之堂は煉瓦造平屋建で、建築面積が112平方メートルである。室内外の装飾には、中国、朝鮮、日本など東洋的なデザインを取り入れる一方、その外観は英国農家をモチーフにするという、ユニークなものだった。

 

 誠之堂の設計を担当したのは田辺淳吉(1879~1926)で、当時の日本建築界をリードする技師だった。

田辺淳吉像大正期を代表する建築家。誠之堂以外にも、渋沢晩年の住みかである晩香廬・青淵文庫なども担当。そのほか「東京會舘」など、当代の名建築を数多く残した。(『田辺淳吉氏作品集』より/国立国会図書館蔵)

 誠之堂の設計に際しては、「西洋風の田舎屋」「田舎の家らしく」「建坪は、30坪前後」「小集会に適する程度の設備」という条件が出された。田辺はこの厳しい条件を守り、見事に誠之堂を造り上げたのである。

当時の誠之堂渋沢栄一の喜寿を記念して、第一銀行行員用の運動施設である東京世田谷の清和園内に建てられた。(『田辺淳吉作品集』/国立国会図書館蔵)

誠之堂

[住所]〒366-0837 埼玉県深谷市起会110-1

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渡邊 大門わたなべ だいもん

1967年生。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)『真田幸村と大坂夏の陣の虚像と実像』(河出ブックス)など、著書多数。

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