渋沢栄一は明治当時「勝海舟」をどのように見ていたのか?
渋沢栄一が交流した幕末から明治の偉人たち④
日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残してきた。そんな渋沢は、江戸幕府最後の政治家・勝海舟について、どのように見ていたのだろうか。
早くから国防に目を向けた先見性のある政治家

東京都墨田区にある勝海舟生誕之地。維新後、勝は困窮する旧幕臣たちの支援を生涯続けた。また、慶喜だけでなく、西南戦争を起こした西郷隆盛の名誉回復にも尽力している。
勝海舟は、1823(文政6)年に江戸本所亀沢町で、勝小吉(こきち)の長男として生まれた。小吉は旗本だったが役職がなかったため、勝の幼少期は貧乏暮らしを強いられていた。
立身出世を目指した勝は、当時の武家の習いに従い、島田虎之助のもとで剣術を学び、1843(天保14)年頃には免許皆伝を受けるほどの剣術の使い手となった。
その一方で、島田から勧められて西洋兵学の勉強を始めると、蘭学にのめり込むようになる。入手の困難なオランダの辞書を約1年間かけて2冊分を書写し、蘭語を身につけるだけでなく、書写したうちの1冊を売って生活の足しにしたという。
勝が蘭学に夢中になったのは、オランダの大砲に興味を持ったからだといわれている。つまり、旧来の兵学は今後の日本の役に立たないという危機感が勝にはあった。オランダの学問に関心を寄せたのは、国防のためだ。
蘭学塾を開設するまでに至った勝は、諸藩の依頼を受け、鉄砲や大砲の鋳造を手掛けるほどに注目を集める存在となった。私塾を開いて3年後の1853(嘉永6)年にはペリーが来航。初めて国外との外交交渉をすることとなった幕府は、広く国内に意見を求めた。この際に勝が提出した海防意見書が幕府の目にとまり、まもなくして勝は幕臣に登用された。当初は翻訳者としての登用だったが、すぐに長崎に設立された海軍伝習所に派遣され、幕府による海軍の創設に尽力するようになる。
小栗忠順(おぐりただまさ)らによる幕府中心の新たな国家構想に反対したため、一時は閑職に追いやられたものの、いよいよ討幕が間近となった1868(明治元)年の鳥羽伏見の戦いの頃に、勝は旧幕府を代表する軍事総裁に就任。新政府軍の西郷隆盛との直接会談を行い、江戸城無血開城を実現した。江戸が火の海となる危機から救ったのだ。
勝は渋沢を小僧扱いしていた
明治維新後、勝は政府高官からの招きに応じて度々、政府の要職を務めている。何度も固辞した上での就任だったが、旧幕臣で新政府に仕えた者がごくわずかだったため、旧幕府に恩義を感じていた人間たちからは、節操のない人間と見られていたようだ。
渋沢が勝と会うようになったのは、フランスから帰国した後のこと。渋沢の主君である徳川慶喜が、領地として朝廷から賜った静岡の地に移り住むことになった時である。
渋沢は、慶喜が一命を取り留め、徳川家ゆかりの地である静岡に住まうことができるようになったのは、勝の手腕によるところが大きいことを認めてはいる。
しかし、維新三傑と謳われた西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允に比べると、少し格が落ちる、と見ていたようだ。これは、渋沢の著述による『実験論語処世談』に記されたもので、「凡庸の器でなかつたには相違ないが大久保、西郷、木戸の三傑に比すれば、何れかと謂ふに、余程器に近い所があつて、器ならずとまでには行かなかつたやうに思はれる」とあるところからもうかがえる。渋沢は、勝のことを人の上に立つリーダーとしての資質には欠ける、と見ていたようだ。
渋沢は徳川昭武とともにフランスへ渡り、幕府瓦解後に無事に昭武を帰国させた。一方の勝は旧幕府の軍事を取りまとめるリーダーとして、江戸城無血開城を成し遂げた。勝は渋沢よりも20歳近く年上だったが、幕臣としての功績も勝の方がはるかに上だった。勝は昭武を帰国させた渋沢に対し、「お前の力で幸ひ体面を傷けず、又何の不都合もなく首尾よく引揚げられて結構なことであつた」(『実験論語処世談』)と評したが、このような上から目線の物言いは、渋沢からすれば「小僧扱いだった」と不愉快な思いを抱いても致し方のないことかもしれない。
また、旧幕臣として慶喜の復権についての思いも違っていた。
渋沢は一刻も早く慶喜を東京に戻したいと考えていたが、勝は決して許さなかった。約30年間も、慶喜を静岡にとどめさせたのは勝の意向のためだ。勝からすれば、「徳川家康公の再来」とまでいわれた慶喜が、明治新政府に反乱を起こす火種にされかねないとの危惧を抱いてのことだったようだが、渋沢は理解できなかった。
「私は、勝伯が余り慶喜公を押し込めるやうにせられて居つたのに対し快く思はなかつたもので、伯とは生前頻繁に往来しなかつた」(『実験論語処世談』)
慶喜が東京に移住したのは、勝が老齢となってからのこと。まもなくして勝が亡くなると、渋沢は慶喜の名誉回復のための事業である『徳川慶喜公伝』の編纂に乗り出すのである。
「勝伯に対し快く思つて居なかつた」と堂々と述べる渋沢に対し、勝が渋沢について述べたものは残っていない。勝も晩年に西郷隆盛など同時代に生きた人物の評を多数残しているのにもかかわらず、だ。この辺りからも、二人は終生そりが合わなかったことがうかがえる。