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渋沢栄一は幕末当時「大久保利通」をどのように見ていたのか?

渋沢栄一が交流した幕末の偉人たち②


日本経済の礎を築いた一人として知られる渋沢栄一は、幕末から昭和の初めまでの間に数々の偉人たちと交わり、その感想や見識を多数の著書に残している。そのなかで維新三傑のひとりである、大久保利通については「底の知れぬ人物」として、非常に高く評価していたようだ。


 

近代日本の礎を築いた政治家

山口県山口市にある枕流亭(ちんりゅうてい)。参勤交代の本陣として使用された。幕末には、大久保や西郷らが訪れ、長州藩の木戸孝允(きどたかよし)や伊藤博文らと密議を重ねた舞台となった。

 大久保利通は、薩摩藩の下級藩士・大久保次右衛門利世(おおくぼじえもんとしよ)の長男として生まれた。西郷隆盛とは幼なじみの間柄で、同じ町内で育った。ふたりの父親同士も親しく、大久保は学問において町内でも抜きん出た存在だったという。

 

 ところが、1850(嘉永3)年に薩摩藩藩主・島津斉興(しまづなりおき)の後継者問題で、斉彬(なりあきら)を擁立しようという派閥に味方した父が喜界島に流罪。子の大久保も連座して処分を受けている。

 

 翌年に斉彬が藩主の座に就くと、大久保は斉彬に見いだされて徒目付(かちめつけ)に抜擢。斉彬の死後は一時的に身分を危うくする一方で、若手藩士による組織・誠忠組を結成し、組のまとめ役となった。そして、斉彬亡き後の新藩主・島津忠義の父である島津久光に接近。久光は藩主の父として藩の実権を握っており、「国父」と呼ばれる存在となっていた。

 

 久光の信任を得た大久保は、瞬く間に藩内で頭角を現し、久光の政務を担う側近の一人として、幕末を代表する改革案のひとつである公武合体政策の実現のために働くようになる。

 

 しかし、1863(文久3)年に勃発した818日の政変の頃から、次第にその思想は変化。流罪となっていた盟友・西郷が藩政に復帰したことと無関係ではないと考えられるが、いずれにせよ、大久保は比較的に平和的な政策である公武合体から、倒幕へと次第に意識を傾けるようになっていく。

 

 大久保・西郷の倒幕の思惑は国父・久光の意向とかけ離れていたが、藩を反幕の方向へまとめあげたのは、大久保の功績が大きい。

 

 1866(慶応2)年には、犬猿の仲であった長州藩と密かに同盟を結び、中央から遠ざけられていた公家の岩倉具視(いわくらともみ)を担ぎ出して朝廷工作に暗躍。討幕の密勅を引き出すことに成功した。これは武力による倒幕、すなわち討幕の意思を鮮明にしたもので、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜に大政の奉還を決意させた。こうして幕府は終焉を迎えることになる。

 

 その後、王政復古の大号令では、自ら先頭に立って、天皇中心の新たな政府の樹立に奔走。明治新政府では、近代日本の礎を築いていくことになる。

 

お互いに嫌い合っていた大久保と渋沢

 

 戦場で指揮した軍人の西郷に比べ、官僚である大久保の印象は薄いかもしれない。しかし、版籍奉還や廃藩置県といった大事業を実現させた大久保の政治家としての手腕は、現在でも評価されることは少なくない。

 

 大久保と渋沢にまつわるエピソードは、明治に入ってからのこと。

 

 当時、渋沢は再三の求めに応じてやむなく新政府入りを果たし、大蔵省に勤めていた。ある日、大蔵省の長官である大久保が、軍事費についてこんなことを言い出した。

 

「陸軍省の歳費額は800万円、海軍省の歳費額を250万円にする」

 

 1871(明治4)年のこと、と渋沢が振り返っているから、まだ新政府が樹立して間もない頃のことだ。渋沢は、大久保の提示する予算案に反発している。まだ歳入がきちんと確定していないのに歳出を決めるのはおかしい。歳入額をきちんと明確にしてから各省に振り分けるべきだ、と主張したのだ。

 

 今日的な感覚で言うと至極まっとうな意見である。

 

しかし、大久保は違った。平時のように悠長に順番を踏んでいては遅すぎる。特に、国防については待ったなしの急務であると大久保は考えていた。

 

 その迫力に気圧されて、他の役人は唯々諾々(いいだくだく)としていたのに、自分より10歳も若い渋沢が一人反論してきたことに腹を立てたのか、大久保は血相を変えて言う。

 

「それなら、渋沢は陸海軍の方はどうでも構わぬという意見か」

 

 正論に対して極論で返すのだから、その場はいかんともしがたい空気が流れたことだろう。しかし、渋沢は毅然と言い返す。

 

「いかに私が軍事に通じていないとはいえ、軍事が国家に必要であるぐらいのことは知っています。しかし、歳入の統計が出来上がらぬ前に巨額な支出の方ばかりを決定するのは危険この上ないことです」

 

 結局、反論するのは渋沢のみで、他の官僚からは反対意見がなかったため、大久保の予算案は通った。この一件に憤った渋沢は、まもなく辞意を表明。慰留を受けてしばらくは在籍したものの2年後には辞職し、官から民へ、つまり、実業界へと踏み出していくことになる。

 

これらのエピソードを記した『実験論語処世談』のなかで、渋沢は大久保についてこう語っている。

 

「私は大久保卿を偉い人であるとは思つていたが、何だか厭やな人だと感じていたものである。大久保卿も亦、私を厭やな男だと思はれていたと見え、私は大変大久保卿に嫌はれたものである」

 

 つまり、渋沢は大久保を嫌っており、大久保もまた、渋沢を嫌っていたようだ。その一方で、大久保の尋常ならざる才能を認めてもいる。

 

「然し、仮令、公(大久保)は私に取つて虫の好かぬ厭な人であつたにしろ公の達識であつたには驚かざるを得なかつた。私は大久保卿の日常を見る毎に、器ならずとは、必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかつたものである」

 

 器ならず、とは論語の言葉で、器(一芸一能)には収まりきらない、というような意味。渋沢はこう続けている。

 

「大久保卿に至つては、何処辺が卿の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらゐあるか全く測ることの能きぬ底の知れない人であつた」

 

 渋沢は大久保を人としては嫌っていたものの、底の知れない多彩な能力については高く評価していたのである。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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