朝廷は慶喜新政権も構想していた!
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
7月18日(日)に放映された第23回では、借款消滅の危機をかろうじて乗り越え、欧州諸国を歴訪する渋沢篤太夫(=栄一、吉沢亮)らの姿が描かれた。一方、日本では、260年の長きにわたって政治を担ってきた幕府が政権を朝廷に返上。これを機に、それまで水面下で動いていた討幕の思惑が、徐々に表面化していくこととなる。
260年続いた江戸幕府が終焉を迎える

江戸城天守跡。当時、本丸は焼失していたため、二の丸に滞在していた天璋院が薩摩藩士を招き入れて放火させたのではないか、という噂がまことしやかにささやかれたという。
あてにしていた借款の消滅で、今後に予定されていた徳川昭武(=民部公子、板垣李光人)の各国歴訪に影響が出てはならないと、田辺太一(山中聡)は昭武の名義で為替手形を発行することを思いつく。オランダの貿易会社やイギリスの銀行に為替を引き受けさせ、当面の費用に充てることにしたのだ。こうして篤太夫らは何とか資金を調達し、諸国へと旅立った。
その頃、武力による倒幕を目指す薩摩藩の大久保一蔵(=利通、石丸幹二)や西郷吉之助(=隆盛、博多華丸)らは、蟄居中である公家の岩倉具視(山内圭哉)と図り、討幕の密勅を下す手はずを整えつつあった。
このままでは国内で大きな戦が勃発しかねない。薩摩の動きを懸念した慶喜は、政(まつりごと)を朝廷に返還する、すなわち大政奉還を決断した。幕府がなくなることで、薩摩藩は振り上げた拳を下ろす場所を失うことになるからである。
慶喜の決断に、国内は大混乱に陥った。今は国内で争う時ではなく、民が一つとなって新しい日本を作るべきとの慶喜の真意を知った松平春嶽(要潤)は、慶喜も新たな国づくりに欠かせない人物であると確信した。
パリにいる篤太夫も、新たな国のあり方を見いだしつつあった。軍人と銀行家が対等に話し、王が自国の物産を他国の人間に売り込むなど、日本では到底考えられない光景を目の当たりにし、これこそ日本に持ち帰るべきものだ、と心を新たにしたのである。
慶喜の大政奉還を受けて、王政復古を宣言した御所では、今後の政権について話し合う小御所会議が行われていた。会議はその場に不在の慶喜の処遇をめぐって紛糾。最初から慶喜を新政権に組み入れる気のない岩倉は頭を抱えるが、そこへ西郷が提案したのは、幕府に戦を仕掛けることだった。
小御所会議から数週間後、江戸城二の丸に火が放たれる。城内には、どうやら薩摩藩の仕業らしいという噂が駆け巡っていた。これをすぐさま薩摩による罠だと見抜いた慶喜は、決して動いてはならぬ、と家臣に釘を刺した。ところが、「薩摩を討つべし」との声が急速に高まるのを見て、慶喜は呆然と立ち尽くすのだった。
小御所会議では大激論が交わされていた
条約を結んだ諸国の歴訪を終え、昭武ら一行がパリに戻ったのは、1867(慶応3)年11月22日のことだった。
その前月となる10月12日、慶喜は諸侯の前で政権を朝廷に返上する旨を伝えている。ドラマ中で慶喜が「昔、帝の治世の綱が緩むと……」と始めたセリフは、朝廷に上奏した建白書(けんぱくしょ)の内容である。
慶喜の大政奉還の上表文は14日に朝廷に届けられた。実は、これと同日に下されたのが、討幕の密勅であった。蟄居中の岩倉があらゆる手を使って下された密勅は、慶喜の大政奉還によって水泡に帰したことになる。
翌15日に朝廷に呼び出された慶喜に、御沙汰書(ごさたしょ)が下されている。天皇陛下は大政の奉還を承諾したが、なお天下のことは大事であるから、一緒になって力を尽くして日本国を維持せよ、という内容である。つまり、大政奉還の直後は、朝廷としては、慶喜も含めた形での新政権を望んでいたということだ。
その後に行われた小御所会議の議題となったのは、徳川家の処遇であった。この会議で薩摩の大久保と岩倉は、一大名に身を落とした徳川家に、それだけにとどまらず、領地も、官位もすべて剥奪することを主張していた。
これに反発したのが、土佐藩藩主の山内容堂(水上竜士)や、越前の松平春嶽らであったことが、大久保の日記に書かれている。
会議は午後5時から始まり、休憩を挟んで深夜12時にまでおよぶ長丁場となったらしい。ドラマでは容堂や春嶽の迫力に岩倉が気圧されているように描かれたが、大久保の日記によれば、岩倉は堂々と論破したとある。つまり、その場は容堂らによる一方的なものではなく、双方による大激論となっていたのだ。
いよいよ議論が膠着して、いったん休憩に入った時、聞きつけた西郷が岩倉にこう助言したのは有名なエピソードである。「短刀一本あればケリがつく」。
流血沙汰になるのも辞さない岩倉の覚悟を前にしたからか、容堂はすっかりおとなしくなり、結局、小御所会議の結論は、一転して「慶喜は大変な過ちを犯した大悪人であるから、領地も官位も、すべて返上させる」ことに決定する。
「腰抜け」と揶揄されることもある江戸幕府最後の将軍・慶喜だが、自ら政を返上するという奇策を講じたことで、流血の憂き目を見ることなく、朝廷への政権移譲が無事に行われたと見ることもできる。その政治手腕は、現代でこそ評価される一面もあるが、当時の多くの武士たちにとっては、到底理解しがたいものだった。
慶喜の受難は、この後も続くこととなる。